東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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魚釣りが大好き

たくさん仕事を引き受けてしまう親分肌

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  • 話し手: 平野栄紀さん
  • 聞き手: 大崎智子
  • 聞いた日: 2011年7月9日
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自己紹介

 名前は平野栄紀(ひらのえいき)です。生年月日は昭和29年4月14日で57歳です。吉里吉里に生まれて、吉里吉里で小学校、中学校を卒業し、釜石北高校に行きました。仕事は保険の代理店業、損害保険業をやっています。自営なんですけれども、釜石に事務所があります。

 自宅は吉里吉里1丁目にありました。国道45号をちょっと下りたところに、今ローソンさんが仮設で営業してるんですけれども、そのすぐ裏ですね。家は全壊しました。家族は両親と私と家内、娘の5人家族でした。大槌町の大ヶ口(おがくち)っていう地区に弟の家がありまして、今はそこにいます。家内と娘は仮設にいます。

 

鉄の町、釜石で働く

 親父は外国航路の船乗りでした。やっぱり親父に憧れて、船の乗組員を養成する学校に入ろうかと受験をしたったんですけれどもその学校に入れなくて。それは諦めて、高校を卒業して8年はサラリーマンしてらったんでね。新日鐵構内の中の会社で、機械工業とかの営業をしてました。釜石は昔から鉄で栄えた町なんですよ、鉄の城下町。県外からも働きに来てる人たちがいたから寄せ集めの町だよね。

 私が勤めていたった会社も、ほんとに景気のいいときにはボーナスが4回出てましたねぇ。みんな鉄の恩恵を受けてらったんですね。このへんでも結構働いている人たち多かったですからね。朝行った人は夕方の4時くらい、夕方の4時くらいから夜中の11時くらい、夜中の11時くらいから朝の8時くらいまで、って三交代で働くんです。私が小さい頃は、釜石の町は煤煙がひどくて洗濯物も干してらんない、車も真っ黒になってね。空気も悪かったし、釜石っていうとすごい煙の町だった。

 保険の仕事は28歳のときからやってます。私57歳ですから今年で29年ですね。「30歳までには独立して」なんてことを考えてらったんで、資本金なくてできる仕事って言ったらこの仕事だったんです。当時自動車の需要が増えて来た時代で、自分も車の保険に入ってらったもんですから、こういう仕事あるからしてみないかって言われて。前と同じ営業の仕事して、給料が3倍くらいになったんですから、自分の力でお金が入って来るのがおもしろかった。

 

震災に遭って…

 震災の日はお客さんのところで地震に遭いました。一日目は釜石で一晩。私の家内は職場が釜石の新日鐵構内にある企業だったんで、朝起きて見に行ったら家内は車のなかで毛布かぶって寝てらったんで、まぁ生きてらなぁということで。俺孫心配だからひとまず大槌に戻るからって、歩いて一日ぐらいかかって大槌町に戻って来ました。親父が親戚の家にいたんで「おふくろは?」って聞いたら、「見えない」。「あぁ、そうか」じゃあ、まぁ多分ダメだろう、って。親父は買い物に行ってたみたいで親父は助かった。おふくろが家におったんでダメでしたね。私には子どもが3人おりまして、長男夫婦、次男夫婦と孫3人、娘は無事でした。

 仕事は自動車保険と火災保険がメインなんですけれども、この津波で自動車が流されたりしてますよね、すると保険の契約を解約しなきゃならない。だから仕事は忙しいですよぉ。とんでもなく忙しらった。当初電話も携帯も通じなかったし、お客さんにも連絡の取りようがなかったんですよねぇ。事務所も当然流されてないですから、会社立ち上がるまで約1ヶ月くらいかかりました。保険金を支払うのに調査をしなくちゃいけませんから、避難所とかを回って「どこだべな?」ってお客さんを探して。安否の確認にすんごい時間がかかりました。うちもおふくろが亡くなってますから「じゃあ、おたくも大変ですねぇ」みたいな言い方されたりですとかねぇ。5月末までで全部、火災保険、地震保険の支払い、口座への振り込みが終わりました。だいぶ感謝されらった。ただやっぱり保険を付けてない人もいますから。

 

町内会長として

 吉里吉里には町内会が5つあるんですね。1丁目、2丁目、3丁目、あと4丁目が西側の金道育成会と北側の若葉会2つに分かれているんですね。この5つの町内会長さんが、結局みんな災害対策の副本部長だってことになって。私は1丁目地区の町内会長やってるんです。

 ここは町内会っていうのがすごくしっかりしてまして、大槌の町でいちばん最初に災害対策本部を立ち上げたのがここの地区なんです。役場のほうは全然立ち上がってないような状態ですから。災害対策本部のメンバーは、毎日朝と夜に避難所に集まって会議やってました。朝会議は7時半、夜会議は16時くらいからですね。朝はその日の段取りの確認をして、夕方は行方不明だった人を発見したとかの報告ですね。

かつての学び舎、震災後は避難所に

 当然道路がなきゃ物資の搬入もできないわけですから、とにかく道路を作ろうってなことで、地区の建設業の方にまったくのボランティアで重機を出してもらって。当初避難所は吉里吉里小学校で、そこから国道までの主要道路を確保しようって、震災の翌日から動きました。重機の油もないってことで車から抜いたりですね。

 あと食料の確保。この地区の流されたローソンさんの食料とかをもらったり。盛岡のほうに紫波(しわ)町というところがあるんですけれども、そこの地区と30年近く「ふるさと交流会」という事業をしてるんです。小学校の5年生が、夏は海水浴に紫波町の子どもたちが来て、それぞれの家にホームステイする。秋には吉里吉里の子どもたちが稲刈り体験に行くんですね。そこの地区の人たちが心配してくれて、いちばん最初にお米なんか届けてくれたり。水はこの地区に沢水みたいな湧水が結構あるんで、それを溜めて沸かして飲んでました。

 それから安否確認ですね。そんなに広い地区じゃないから地区の皆さんの顔と名前はほとんど分かります。1丁目地区では132戸あったうち残ってるのが50戸あるかないかですけど、当初はそこに180人くらいいました。この在宅の人たちへの食料配布も自主的にやりました。組織がちゃんととしてるから、すぐ在宅の人の把握ができたわけです。6月24日に町の食料配布が終わるころには、在宅の避難者は100人弱に減りましたね。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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