東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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  • 話し手: 東谷幸子さん
  • 聞き手: 冨永朋義
  • 聞いた日: 2011年7月31日
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漁師の家に生まれ、漁師の家に嫁ぐ

 東谷幸子(あずまやさちこ)といいます。生まれは、昭和20年6月13日、岩手県大槌町の吉里吉里です。この避難所にいるうちに66歳になりました。

 父親は漁師で、母親は漁の網をつくる仕事をしてました。うちは分家なんで、本家を手伝ってってかたちで。父は1年のうち10ヶ月くらい船にのってたので、毎日会うんですけど話するっつうのはあんまりなくて。兄弟姉妹は5人いたけど、まず私の下2人が亡くなって昨年兄貴が亡くなって、今は私含め女3人です。

 24歳で結婚、子どもは2人です。25の時に男の子、29の時に女の子。お父さんと一緒にワカメ、ホタテ、ホヤ、カキの養殖をやっています。今回の津波で家と作業倉庫は全壊、船一艘だけ残りました。もうダメだと思ってたったのが、沖のほうに流れてたったみたいで。「あれ、東谷の船だぞ。どこに浮かんでたったんだべ」ってみんなでね、びっくりして。

 

避難所に調理場を?やってかなきゃ、私たちのためになんない?

 3月11日から避難所で食事を担当してます。避難所の本部長しているお父さんから、「やっぱり何が食べものつくってやらなきゃねんでねぇか」って言われたのがきっかけで、協力隊の隊長として何をやるべきかって考えたときに、「そうだ、やるんはそれなんだな」って。はじめの4日間は、飴ひとつ、煎餅一枚くらいでした。そしておにぎりが配られ、米とか他の物資がだんだん入ってきて、みんなのお腹の足しに少しはなったかなっつうのは、1ヶ月ぐらい過ぎてからでしたね。

お母さん方が協力して食事を準備(芳賀太一さん撮影)

 今の避難所に移るって決まったとき、移る3日前ぐらいでしたけど、ここに調理場はなかったんです。食べものの用意は自衛隊でもできるって言われたんですけど、それは違うんじゃないかって思いましたね。命あるっつうことは食べることが第一だと、私はそれが一番身にしみてわかったので、食べらせることが私の役割だと思ってがんばってきたんです。ここにいるお母さんたちはご飯の仕度のプロ。震災前はみんなでやってきたんだから、自衛隊の世話にならなくたってできるんです。やっぱりやってかなきゃ、私たちのためになんないって。それに、避難所から食中毒を出すことはできないから、ちゃんとした調理場作ってちょうだいって役所の人たちと争ったんです。

 それで、私一人の力ではどうにもなんないから、みんなも反論してほしいって言ったんです。300人ぐらい集まった集会で私がそう話したとき、みんなが「そうだ」って言ってくれました。自分たちでできることは自分たちでやってかないと、これから自分たちが生活していく上で大事なことだと思ったんですよ。

 避難所での朝ご飯は、多いときは500人分のおにぎりをつくらなきゃなかったんで、4時に起きてました。若い人たちはあんまり早いと大変だろうなと思ったんで5時から。13人くらいでご飯をつくるんですが、最初は在宅の人たちが3分の2、避難所にいる人たちは数人でした。

 避難所にいると、やってくれる人がいるから、やっぱり人任せになるんですよね。1ヶ月ぐらいはいいがなと思って見てたったんだけど、いつまでもこれではダメだと思ったんで、「私たちはお客さんじゃないんだから、避難所にいる人たちで大半やるようにしたいんだけど」って話したの。そしたら、それが当然だよねって。私が4時に起きていくのを見た人もいて、それが口伝えに避難所に広まって、「私たちも手伝うから」って来てくれたんです。自分たちから気づいてくれた、ありがたいなって思いました。

 私は毎日そういう時間帯で仕事をしてたから、だから苦もなく仕事ができたったのは、養殖してたったおかげだと思ったんです。養殖はつらくて大変だからやれない、嫁に行けないと言っている人が多いんだけど、自分がこれまでやってきた仕事を誇りに思えるなと。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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