東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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  • 話し手: 東谷幸子さん
  • 聞き手: 冨永朋義
  • 聞いた日: 2011年7月31日
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高校進学に暗雲、でもあきらめない

 中学2年の頃、父親の船がサンマを積みすぎて、波をくらって沈没、遭難したんです。私は普通高校に入りたくてすごい勉強したったんだけど、お父さん亡くなったんでどうしても高校に入れられないってお母さんに言われて。悔しくてね。でも、入りたくてずっと勉強はしてたったんです。まわりのおばさんたちからも、お金出してもね、やっぱり入れてやりたいからって言われたったんだけど、お母さんが「他の人の援助まで受けて高校に行かせたくない。わかってほしい」って言われてね。高校っていったら、やっぱりお金かかったんですよね。

 「じゃあ、せめて洋裁学校に入れてほしい」って言ったったの。中学のとき家庭科が好きで、隣のお姉さんから洋裁教わって、妹たちにスカートとか作ってやったりしてたのね。洋裁学校なら教材は家から持っていってやれるから出してやれるって言われて、それで釜石文化学院という学校に行ったんです。汽車で片道40分くらいかかったんですかね。2年通って、卒業後、釜石の商店街で布を売るところに勤めたったんです。何ヶ月か勤めたほうがいいって先生に言われて、学校が斡旋してくれて。でも、やっぱり縫い物がしたかったんで、半年くらい勤めた後、家で内職みたいなことをやりました。ただ、縫い物してもあんまりお金にならなかったので、それに妹たちが学校に入るとか家計も苦しかったんで、やっぱり勤めたほうがいいって言われて。

 

売り子の経験、人前で話す度胸が

 そしたら、汽車の売り子の募集があって、世話されたんです。縫い物はいつだってできると思って、そっちに切り替えました。職場が宮古だったんで寮生活。最初は鈍行に乗って、3ヶ月間見習いでした。その後、一人で売り歩いて1年ぐらいたった頃、宮古から花巻まで急行電車が通ることになって、それに3年半ぐらい乗ってました。はじめはもう恥ずかしくてね。車両に入る前に「お邪魔します。よろしくお願いします」、歩きながら「いかがですか」って言わなきゃないし。地元の人たちも利用しているんで、「あっ、幸子さんだ」って言われたりしてね。でも今思うと、人前で話すってことが、そのなかで育てられたんでねえかなって思うんですよね。

 

この人ならと、反対押し切り結婚

 それで今度は、吉里吉里の駅にできた売店で勤めてた人がやめるっつうんで、そっちに回ったの。そこで1年半くらいかな。地元に戻ってきたから、青年会にも入って一生懸命やっとったんです。小さい頃から踊りが好きだったから、「あれ踊ってけろ」って演芸会によく呼ばれたんです。そこで、お父さんと知り合いました。惜しいから売店の仕事はやめないほうがいいよって言われたったんだけど、やっぱり漁業やってる家なので、やめなきゃないと思ったんです。

 うちのお父さん、ただ単に他の人の真似するだけでは絶対、収入につながらないって、ワカメでもホタテでも、自分が手がけるものの生態を勉強しなきゃっていう気持ちを常にもっている人で研修にもよく出てたりしててね。旦那さんとしてだけでなく、青年会の先輩として、この人だったらばついていける、何か得るものがあるっつう気持ちで一緒になったんで。反対を押し切って一緒になったんでね。ずっとそういう気持ちでやってます、いまも。

 

みんなで食べるのが大事

 嫁いだとき、家族は11人くらいいたんでないかな。お父さんの両親とおばあさん、妹たちや弟たちもいたしね。初めはね、養殖の手伝いつっても何もわからなかったんで、私は家にいて、その妹さんたちの子どもの世話しながら、ご飯の仕度するっつう毎日でしたね。

 おじいちゃんからは、魚の作り方を教えてもらいました。朝は、やっぱり生きたお魚を食べらせたいからね。今の時期だとショッコ、ブリの子ね。この地域ではそういうの。それをお刺身にしたり焼いたり。あと、ちっちゃいサバ。これはぶつぶつ切っておつゆに入れたりしてね。みんな、おじいさんに教わった。

 養殖業なんでもう365日、浜にいるんですよね。お父さんは朝とお昼のお弁当を作って浜に持っていって、そこで食べるんです。夜は家で食べるんだけど、私が嫁に行ったときは忙しい時期で、あまり家族でご飯食べるっていうのは少なかったんです。でも、私が仕度するようになって、絶対これじゃダメだ、一日一回はやっぱりみんなで食べるのが大事だと思ってね。おばあさんに少し待ってもらって、夜は家族みんなで食べるように努めました。そういうように変えてかなきゃないと思って、ずっとやってきましたね。

 

手づくりの暮らしを大事に

 お父さんの家は、畑もいっぱいあったし果樹園もあったんです。だから野菜も家で作ってたった。大根とかジャガイモ、いまの時期はキュウリとかナスとかピーマンとかね。果物はリンゴやナシ、ブドウとかを作ってたった。田はやってなかったんで、買ったのは米ぐらい。そう、味噌もうちでついてたった。麹とか豆とかは買ってね。

 そういう生活がちょっと変わったのが、私が40歳ぐらいのときですかね。浜のほうが忙しくなったんです。浜から帰ってくれば、お父さんと一緒に畑の草取ったりとかやってたったんですけど、おじいさんが亡くなったこともあって畑仕事とかに手が回らなくなった。そのときは、お金がそこそこ取れてきたったんで、自分たちの体をこわすよりは、買って食べたほうがいいんでないのっつうようなことだったんですね。ただ、そういう生活、私はちょっと捨てがたくてね。お父さんに「このままいくと体こわすぞ」って言われても、やってたったんです。でも、ホタテやワカメなんかも高かったんで、「大きいホタテ取って売ることで食べてくのにいいんでねえか」って言われたったんで、最後は、それもそうだな、じゃ、やめっかって。

 でも、野菜は親戚からもらうのも多かったし、車で業者さんが売って歩いてたりしてたったんで、結局、地元の人たちが売ってくれるみたいな感じでした。特別に買い物に行くっつうのはあんまりなかった。子どもは揚げ物とか外で売ってるようなものが好きだったんだけど、出来合いのものを買って食卓にのっけるっていうことは基本的になかったな。

 子どもたちに洋服も作ってやった。それこそ夜なべしてね。小遣いも欲しかったんで、内職もしたし。でも、おじいさんにね、電気代かかるからやめろって怒られたりして(笑)。それでもまあ、やりましたね。子どもたちさ、作ってやんなきゃないと思って。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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