東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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変わりゆく漁業、育ててきた漁場

高度経済成長、東日本大震災、それぞれの節目に立ち会って

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  • 話し手: 東谷寛一さん
  • 聞き手: 代田七瀬
  • 聞いた日: 2011年7月10日
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自己紹介 ―漁師は俺で三代目―

 名前は東谷寛一(あずまやかんいち)。昭和18(1943)年9月15日生まれだから、67歳。早いもんで、はぁー70になるってとこ。生まれも育ちも岩手県大槌町の吉里吉里だ。子どもは、兄さんと妹。家では、90のばあさんと、孫3人の息子夫婦と入れて、8人家族だったの。4世代。

 漁師は俺で三代目なんだ。うちのおじいさんは、途中から漁師になった。明治の時代に。他の仕事してやったんだけど、やっぱり浜に座ったら海の魚や漁の姿が好きだってなぁ。その辺から漁師になった。

 今回の震災で、家も流されて、働く場も奪われて、二重苦がうんと肩にのっかかって。せめて家だけでも残ってれば、浜の復興も簡単に踏み出せっと思うんだけど。やっぱり、両方失うというのは本当にショックだもん。

 みんな無事だからよかったのさ。今仮設にね。当初は内陸に移動も考えておった。今は移ろうとは思ってない。やっぱり、震災から時間もたって、ある程度の心の座り方っつうのかな、今になってやっぱり、ここさいいなという気持ちの方が強いと思うんだよ。そういうことで、これからがんばんねばなんねぇなと思って、心を決めつつあります。

 

避難所の本部長として ―みんなに感謝だ―

 地震にあったのは、軽トラックで会議に出るために漁協に移動してて、安渡地区の路上にいた時だった。ラジオのスイッチを入れと、大津波警報が出て、岩手県沿岸3?5mと流れてたな。すぐに家に戻って、妻を降ろして避難しろと言って。オラは海岸の仕事場、加工場、倉庫が心配で見に行って、津波に遭って、軽トラックで高台にある三陸園(特別養護老人ホーム)へ避難したんだな。津波が吉里吉里全土を丸のみにする状況を目の当たりにして、吉里吉里は、もうこれで終わりかと思ったな。

 津波が落ち着いてから歩いて、途中、消防ポンプ車に乗せてもらって、避難所になってる吉里吉里小学校へ向かったの。着いたのは、午後5時30頃。グランドや体育館に500人を超える人がいたんだ。グランドは震災を免れて。バス3台が体育館前にあって、体育館と校舎へ、バスから電気配線が引かれて、電灯と電気ストーブの準備がされていたんだな。だから震災の日の夜から光が灯されていたんだ。それに、あの時は雪が降ったからね。2日目からパソコンが住民の協力で持ちこまれて、避難所の事務体制が出来てきて。地元の人10名が食糧班で炊き出しをして、看護師5名で救護班をして。学校の先生方は避難所の夜の使用方法の段取りをしていたの。

 震災の日の夜に、グランドでは、みんなが火を焚きながら「おい、明日からどうする」って話になって、校舎に入って、みんなで相談したんだ。消防団関係者、町内会長、地域有志20名ほど集まって、組織立ち上げたんだな。本部長を誰にということになって、一番年長で、消防の分団長やってたので、「おめいさん、本部長をやってけろ」と。それで、避難所の本部長ということで、できることからやっぺってして。うちの家内も、避難所で炊事のチーフやったの。

がれきが撤去された道路(震災から約1ヵ月後)

 そうして、道路がねぇと物資も医療もこねぇから、道路をつくろうと。それには、重機が必要で。住民が持っている3台の重機の協力を得られて、それを中心に、消防団、住民の50人がトラックなどを持ち寄って、町道、国道、町指定のヘリポートまで瓦礫の撤去作業を始めたんだ。それから、行方不明者だの、生存確認したところ、あの人もいねぇ、この人もいねぇとなって、捜索はそのまま続けることになったんだな。

 自衛隊と警察の機動隊も捜索に入ったんだけど、重機を持ってないと捜索できない所もあって、地元は重機持ってたから、一緒の捜索は2週間ほど続けられたんだな。捜索期間中は、ただ無我夢中だった。住民の方々はいろいろな面で協力してもらったし、自分の培ってきた知識と技術を提供してくれて、がんばってもらいました。みんなの協力と努力に感謝しています。

 震災には、地域住民の協力と努力、そして、電気、水、食料、燃油の確保をいち早くすることが、一番大切ではないかと感じたな。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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