東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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変わりゆく漁業、育ててきた漁場

高度経済成長、東日本大震災、それぞれの節目に立ち会って

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  • 話し手: 東谷寛一さん
  • 聞き手: 代田七瀬
  • 聞いた日: 2011年7月10日
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家族と一緒に暮らし、働くこと ―40年かけてつくったものが流された―

 今までの昭和35年のチリ津波だの、十勝沖地震の津波の状況と違うからね。その時には養殖とかは全然やってなかったからな。磯漁、刺し網とか延縄とか、回遊している魚を追って漁業をしている時代だったの。

 だけども、地元の沖で魚が獲れなくなったから、地元で資本を投入して、地元で収入を得られる養殖という漁業形態をね、みんな望んできて。遠洋漁業にいって3カ月も沖に出て、家さ帰れなかったのが、やっと家族と一緒に生活しながら仕事ができる、そういう環境がようやくできたという地域の人たちの喜びがあったんだよね。

 今回の震災前まではね、オラも現役で漁師やってたの、養殖の。ワカメは昭和41年頃からやってる。ホタテ、ホヤ、カキもやってね。昭和40年頃、ワカメの養殖やったのは100人もいたの。それくらい魅力的だったのね。今はみんな高齢化してって、震災前までには26名に減ってしまったけど。

1隻だけ残った「第五稲荷丸」

 それが今回の震災で打ち砕かれたから、一番ショックが大きいの。家も、船も、倉庫も、施設全部流された。中学校の頃から、40年もかけてつくったものが全部。時間とお金とかかったの。それが1時間で打ち砕かれたから、不安も大きいと思う。人間はこのようにやろうと思ってもできることでねぇから。オラの所も規模拡大しようかなと思って、2年前に変えたばりだった。船と施設で1200万くらい。それ、そのまま流された。船は5隻あったのさ。残った船は一隻だけ。第五稲荷丸。3tだ。それも修理しなきゃなんねぇ。

 

漁師になったわけ ―選ぶ余地がなかったからな―

 そもそも漁師を継いだのは、選ぶ余地がなかったからな。小学校3年生から、アワビ採りだの、天然ワカメの採り方の、船を支える仕事さおじいさんに連れていかれて。嫌でもそうしねば生活できなかったからね。手伝ったのはオラだけ。7人兄弟でも、弟はみんな10くらい離れてっからね。オラは長男だからね。兄弟の中で漁師になったのも俺だけ。自分がやった辛いことを弟たちさやらせたくないなと思ったりもして。いやー辛いと思うよ。朝5時頃から起きて行くんだもん。アワビ採りにね。昔は船外機もねがったから、1時間30くらい櫓で漕いでいくんだもん。

 でもオラ、小学校の6年生終わっ時、文集に書いたのがあんの。船長さんになりたいって。だけども、それが高校入試の時に、はぁ頓挫してしまったんだ。高校入試の時、船長になりたくて、水産学校行の学科の入試さ行って、目の検査で「あなたは色弱ですよ」って言われたんだ。昔はね、色弱は運転免許も取れなかったしさ、船の船長さんにもなれなかった。色が間違うのさ、遠くになると。赤と緑が遠くのものが区別がつかないの。近ければいいんだけど。今はレーダーとかGPSとかあっから、衝突とか避けられるけど、昔は全部目視だったからね。昭和60年かな、運転免許が誰でも取れるようになった。だけども、船長さんの免許は取れねぇの。だから、おっきい船の免許はあきらめた。この辺は、10トン未満の船で、漁をするにはそんなに遠くさいかなくても漁できっから。だから、北洋のサケマス漁業が盛んで、危険だけど儲かった時期があったんだけど、オラは北洋漁業にはいかなかった。

 オラたちの時は、集団就職の時代。高校卒業した時には、東京に出ようかなと思ったりもしてた。高校卒業して、大槌の魚市場のスルメの冷蔵庫さで働いたことあったんだけど、給料安いし、親父ひとりじゃ漁できねかったもんね。親父は傷痍軍人で体が丈夫でなかったしな。シナ事変に行って、銃弾の破片を受けて、ちょうど心臓の脇と右の肩のとこさ破片が入ってたのずっと。だから、1年半で辞めて家さ戻ったの。その方が高収入得られたし。

 

イカを干すお手伝い ―寝ている暇がながったね―

 親父は人を雇って、イカ釣漁船やってたからね。20tくらいの。それで、時期が空けば、アワビとかワカメ採りするの。イカは6月末から11月いっぱいぐらいまで。夕方出てイカ釣りに行けば、夜の10時ころに満船にして帰ってきて、それを陸に揚げて、また沖さ出て行って釣ってくるくらい採れやったの。

 だからはぁ、オラたちも小さかったけど寝ている暇ねがったな。5時頃から叩き起こされて、スルメを天日で乾かす作業手伝ったの。干す期間は、7月から11月までだ。一枚一枚開いて、きれいに平らにする作業して。この辺では生半端っていうんだけど、ちょっと水分が取れたくらいに乾燥させてんのさ。二日くらいで乾かすの。ちょっと水乾きがしたような感じの時に、全部今度は足と足一本ずつほぐすの。一本一本離れて乾燥しないと、商品価値が下がっから。何千枚もやったね。

 それを冬に売った。オラたちは金持たせられなかったから、なんぼだったのかわかんなかったけど。冬は仕事できねぇんだ。西風が吹いてね、魚もいなくなんの。だから、アワビ採り以外は12月から3月いっぱいまで漁は休んであったの。その間は、スルメイカを乾かしたやつを、家の中に積んでんのさ。うちの八畳間の部屋さ、梁までそれこそ3部屋か4部屋ぐらい積むんだもん。それくらい大量だったの。冬だし、干してっから匂いがねぐなるんだ。少しづつ生活しねばならないから、全部一回にさばかないで、12月から3月にかけて売ったのさ。10枚ずつ束ねたのを、100枚を一束にして。昭和35、6年頃までかな。

 イカが漁立つと学校が休みにもなった。学校単位で手伝いに来てほしいということで。だから、イカがいっぱいとれねぇかなぁと思ってたね。勉強しなくてもいいし、みんなに負けたくないという刺激が生まれんだから、楽しかったのさ。物がねぇ時代だからさ、手伝いして、おやつもらったり、お駄賃をもらって修学旅行の資本にしたりしたてなぁ。

 昭和35年頃からね、イカ釣りも干さないで、生で売れるような時代になっとったね。冷凍保存はその後だ。でもうちはそうなる前の、オラが中学校三年生(1958年、昭和33年)の時にイカ漁辞めたから。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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