東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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  • 話し手: 松村美代子さん
  • 聞き手: 市川薫
  • 聞いた日: 2011年7月30日
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 松村美代子(まつむらみよこ)といいます。52歳です。吉里吉里生まれで、吉里吉里に嫁いだんです。旦那もここの人です。子供は上の子は24歳で小学校の方で臨時教員をしています。2番目の娘は岩手の大学の2年生で普段は盛岡にいます。主人は、船乗りなんです。商船乗りをしています。

 

地震そして津波のとき

 地震のときは家にいたんです。家の中にいて、最初はものを押さえたりもしたんだけど、揺れがすごかったもんで、私は家の裏の方に逃げたんですよ。子供たちは家の前の畑に逃げたようで。地震がくれば、常に家の前の畑の方に、逃げるという形にしていたから。娘は、たまたま盛岡から帰ってきていて、家族全員そろっていたから良かったんですけど。 電信柱も家の後ろのエコキュートも、ものすごく揺れていて、これはただことじゃないなと思って。4丁目の方に私の実家があって、85歳の母親と、足のちょっと悪い兄の嫁さんの2人暮らしだったので心配だったから、車で向かいました。うちはお父さんいるから大丈夫だねって。実家が大丈夫なのを確認してまた家に戻ると、子供たちは荷物を背負って、ワゴン車に避難していました。その時点でテレビもついてないし。

 主人が国道の方に出ていたから、私も行ってみたらば、海の方へ走って来る車がいっぱいあって。海をみていると、遠くの白い灯台をこえるようにして立つような波がわーっと来ていたの。だから旦那と2人で道路の真ん中に立って必死で車を止めました。津波来るからって、必死で止めたんですけど、振り切って行ってしまった車も何台かいるんですっけ。そうしているうちに、ローソンがあるんですけど、そこのところまで流れた家がきたもんで、家も危ないなと思って、すぐ家族で実家の方に避難したんです。実家の方が高いところにあるからって。

 逃げていくときに、ちょっと高台があるんですけど、家が横に、線路の下に横に流れていく様子が見えて。土ぼこりで町が一瞬見えなくなったんです。実家からは船着き場あたりに家が流れていく様子とかが見えて、ショックでした、すごく・・・。でもこの時の記憶って、もうぽつんぽつんって所々しかないんですよ。自分の行動の全部は分からないって感じですよ。

 翌日に、避難所に手伝いに行こうと思って、小学校から下を見たときの、瓦礫にはすごくショックでした。何これ、って。前の日には家が流れていったのを見ていたんですけど、実家からは下が見えないし、まさかこんなに、全体にこうなっているっていうのは想像もしませんでした。

 

実家での避難生活

 今は電気が点くようになって家に戻っています。うちは大丈夫だったんですけど、全部電気だったから、実家に行った方がよいなと思って。実家はガスだったから。母さんと姉さんも心配だったし。ストーブは残っている灯油を持ち寄って焚いていました。

 だいたい20何日に電気がついたんですよね。それまで、ろうそく一本の生活でした。最後には、「結婚したときのキャンドルサービス用のろうそくがあったよね」って言って、家から、ちょうど25年前のろうそくを出してきて灯しました。娘たちに、「これね、お父さんとお母さんが結婚した時のろうそくだよ」って言って。役に立ちましたよ。助けられた感じね。でも、ろうそく一本ってそんなに長くはないんですけ。だから毎日明るいうちにご飯食べて、暗くなる夜6時から7時とかにみんな寝てしまって。夜が明けるのがまだ遅くて。

 もちろん水道も来なかったけど、実家のそばには井戸もあったから、それで米をといだりしていました。お風呂は、10何日ぶりに、山田にある温泉に行きました。髪洗っても最初には泡が全然出ないの。それに、体をこすってお風呂はいっても、上がるとまた白く垢が浮いてしまって、本当にもうびっくりしたのよ。その次は1週間後に遠野の温泉に行きました。お風呂入れない、髪を洗えないというのはすごく苦痛に感じたわね。お産したときも風呂に入るなって言われて、そういう経験をしているのにね。

 実家には、うちの家族の4人のほかに、私のいとこやその家族なんかが避難していました。全部で13人。子供が6か月、1歳、5歳と3人いました。大人はある程度我慢できたけど、子供たちはかわいそうでした。場所も違うし、夜は寝れないし。一番大変だったのが6か月の赤ちゃん。ミルクも、おむつもなかったし。おむつは、タオルを使って、買い物袋をおむつカバーにして。あとは食べ物はごはんをつぶして、食べさせたりしました。3日くらい経って、別のいとこが盛岡から来るときに、ミルクを持って来てもらいました。

吉里吉里には大きな冷凍庫を持つ家庭が多い

 それから、大体この辺りはどの家でも、大きな冷凍機があって、刺身でも小魚でも長く食べられるように、そこに保存しとくんです。あの頃は3月でしょ、12月くらいになると荒巻を作ったりするから、それが残っていたりするんですよ。だから食べ物はあったほうかなと思うんだけどね。あまり蓋を開けないようにして、買い物袋に雪をいれて冷凍機に入れたりしました。ちょっと昔みたいね。いろいろとあの頃は考えましたね。震災のときに、いかにうちらは贅沢をしてきたかって、食べ物も無駄にしてきたかってことを感じましたね。今はお金出せば何でも買えるし、多目に作って、食べないからって捨てたりとか、よくあるでしょ。こういう時ってもったいなくてそれができないもんね。子供たちに言ったかな。いかに贅沢をしてきたかが、今分かったでしょって。子供たちはこういう生活をしたことがなかったからかなり苦痛だったと思う。でも、家族一緒だったのが一番良かったかなって思うんですよ。一番下の娘は普段、盛岡にいるから、地震のとき離れてたら、それが一番心配だったかなって。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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