東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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吉里吉里で大工50年

大工さんはなっでもする

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  • 話し手: 倉本方紀さん
  • 聞き手: 福島空
  • 聞いた日: 2011年7月10日
  • 015/101

倉本方紀(くらもとまさき)です。もともとはこちらの生まれ、昭和17年12月5日。大工さんです。大工さんになったのは、おやじの望みだったの。小さいときから。兄弟は、俺いれて4人。兄っちがひとり、正月亡くなった。下は弟と妹。弟と妹は、お母さんが違う。弟はいま、事務所は流れたけど水道電気の工事屋さんやってるし。妹も、店は流されたけどもやっぱ水道の方に務めてたんだ。

いまは妻と息子と娘と孫と住んでいる。2番目の息子は東京にいる。おらの2番目の息子は、東京さ行くときに、おやじ本当にいいのかってね。あれは大工さんしてもいいと思ったんでねかな、今思うとね。

 

あの日 3月11日―その時

地震のあったときは、たまたま家にいだった。家は線路のすぐ上だから。それで地震がおさまってすぐに、揺れがすごかったからね、孫を、幼稚園さ行ってっから、それを車で迎えに行ってさ、連れてきて、置いで。女房さ、車も2台作業場にあるから俺取りさいってくるから、って言って。歩って、だいたい5分ぐらいかかっかな。途中、同じ働いてる壁屋さんがいだったのさ。だからまづ、ダンプの方はその壁屋さんに持ってってもらって。ほいでまづ行って、軽のバンをエンジン駆けてハ、車を方向転換てハ、逃げるスタンバイで。大津波だからね。あれで道具をつんでれば、だめだったかも。波が見えたったから、あの国道の曲がったとこさ。作業場は近いからね。あの波を見たから、まづ逃げてきた。ただ、途中、仲間の大工さんいだどもね、声かけたどもね、その大工さん流されだった。だめだった。声かけてきだども。「大工さん!津波きたよ!」って、だども。そこが残念だったな。奥さんとふたり。それがすこし心残り。声がちちぇがったのかなーと思って。ほってば、歩っでどきも声かけたどもね。ほいで帰りもエンジンかけて、一回帰ってぐどきもいだったからね。

それからあどは吉里吉里の駅、あそこまで上がってきて、それからこう見たのす。したら大変なんだもんねぇ波がハもう、家が流されて…。駅の方まで上がったのさ、車でね。自宅はその上だども、自宅の方も心配したのす。それから、娘はバイトで、役場の方の臨時でね、大槌中学校の事務の。だから俺はそっちの方を心配しだった。結局、自宅も家族も大丈夫だった。

同級生は3人亡くなった。浪板2人、吉里吉里1人。吉里吉里にいた人は定年になって家にいたんだな。浪板は漁師だな。船を見にさ行くとか、海の近くに行った人はだめだな。

 

被災生活、木と酒で暖をとる

弟のうちの人たちはおらいのうちさきたのさ。うちさ流されたから。1ヶ月ぐらいかな。それで避難所さ行ったのさ。うちさいると情報がはいんねからさ。8人ぐらい泊まってた。お酒は毎晩。酒の好きな人だったからね、夜は寒いからね。ストーブで暖をとってた、燃料は木、木で。大工さんだからね。小屋にストーブ付けてたから。電気は1ヶ月以上止まってた。ガスはボンベさ入ってたからね。あとはストーブで火燃(も)すればね。だから、2ヶ月ぐらいコタツで寝たな。お客さんに布団寝てもらって、自分らは、飲んでっから寝るからね、その方がいいんだ(笑)。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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