東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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漁、商店、消防団を経て

波乱万丈の吉里吉里での72年間

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  • 話し手: 芳賀寛治さん
  • 聞き手: 中村会美子
  • 聞いた日: 2011年7月9日
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家族

 名前は芳賀寛治(はがかんじ)と申します。昭和14年7月17日生まれ、今年で72歳になるよ。元気でしょ。それは外見だけ。中身はぼろぼろだよ(笑)。若いときの元気の源はクエン酸だったね。クエン酸、真面目に飲んでたから風邪知らずだったよ。

 家族は私とお母ちゃんと娘と息子の4人だね。お母ちゃんは私の5歳下で吉里吉里の出身。私が27歳の時結婚したからもう45年経つけどね。娘は40なんぼ、息子は30なんぼで、まだ独身なの。息子は釜石で働いてるよ。娘はうちの店手伝ってたんだよ。うちの店? 芳賀商店って言って吉里吉里じゃ大きい方の商店だったの。食料品扱ってて鮮魚も売ってたよ。でも、数年前から町内に大型店が出店して経営状態が芳しくなかったから、今回の大震災をけじめにして、店をやめる決心をしたんだよ。お母ちゃんも一生懸命働いてくれたし体力的にも限界かと思って。あまり丈夫じゃない体なので、少しでも体力的に余力のあるうちにと思ったことも事実でね。ただ高齢者のお客さんには申し訳なく思ってます。

 

大槌町消防団

大槌町消防団の演習

 私は20歳の時から65歳まで消防団活動に携わってきたの。地元吉里吉里・浪板地区第3分団の分団長を4年間勤めて、その後本部副団長を13年間勤めたの。大槌町消防団では昔から消防団活動の年間行事の1つとして、年1回親睦区交流大会をやってきたの。野球大会、運動会、カラオケ大会と続けてきたんだけど、今から10年位前に中身を変えて講演会をやることになって。私が交流会の実行委員長の指名を受けて、いろいろ検討した結果、盛岡大学の、地震津波専門学の権威である教授にお願いして講演をしてもらうことになったの。消防団員、署員、婦人消防協力隊、約300人程の出席者でした。約1時間30分の講演で、特に繰り返し「岩手県と宮城県の県界沖が、今にも大地震大津波が来てもおかしくない位危険な状態です。皆さん十分気を付けてくださいよ」と念を押して言われました。だけど、どこまで避難すれば安全かはわからなかったの。家族や地域の人たちにはその話をしたんだけど、今にして思えば、もっともっと強く話してやるべきだったと残念でなりません。

 

心の油断、スキがあったんです

 今回の津波は、明治29年の時とは全然違ったよね。明治の津波は、家から50m位下の金毘羅神社付近で止まったんだよ。大体海抜10m位かな。今回は約14m位かなって思ってるけど。

 地震の後だね。「第1波が海岸近くのあづま民宿付近で止まった」って誰かが言ったの。第2波が一番大きいって言われてきたけど、自分ではせいぜい明治の津波と同じくらいかなと判断してしまったんだよね。だから、第2波が来るまでの間、地震で棚から落ちた商品の片づけをしてたの。でも、外の異変に気づいて道路に出てみたら、第2波が、不気味な音を立てて来たの。住宅が粉々に壊れて、黒い煙を巻き上げながら、海岸から数百メートルにあった家の2階が2軒、うちの前に瓦礫と一緒に流れてきたから、もうびっくりした。気を持ち直して、自分も逃げようと向かいの駐車場から車のエンジンをかけて走ろうとしたら、瓦礫に押されて車に閉じ込められてしまったの。運転席で潮の流れを見ていたら、大分流れも弱ったから大丈夫かなと思って潮が引くのを待ったの。そのときは運転席と後ろの荷台も水と泥で一杯だったね。

 それから20分位して海水が引き始めたんだけど、瓦礫で車を動かせなくなって。でも幸いにディーゼルエンジンのためか始動できたの。近くに止めていた軽トラは海水がエンジンに入って使えなくなった。

 お母ちゃんと娘は、なんとか逃げ延びただろうとは思ってた。無事の姿を見て安心したね。家の周りを見たら、玄関と茶の間に近所の家が3軒程押し重なるように流れてきていてびっくりした。茶の間にも水が入って、納屋もすっかり壊れて。1週間位、親戚の家に世話になったよ。畳を10日位干して、納屋と住居の壊れた部分を修理してもらったの。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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