東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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漁、商店、消防団を経て

波乱万丈の吉里吉里での72年間

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  • 話し手: 芳賀寛治さん
  • 聞き手: 中村会美子
  • 聞いた日: 2011年7月9日
  • 013/101
ページ:2

米軍飛行機、機関銃がバラバラーって。忘れることできない

 3月11日の大震災もだけど、戦争の時も大変だったよね。私が小学校に入る前の年、7歳の時に初めて空襲があったの。その後、数回逃げた記憶あるね。

 当時は山の所有者が防空壕を掘って、空襲警報が発令になるとそこに逃げるの。電気を消したり、子供は泣かせちゃダメだってすごい気を使ってね。その中で忘れることできないことの1つが、当時の集会所前の岸壁で親父と釣りしていた最中の空襲だね。アメリカと戦争が始まってたのは聞いてたけど、まさかこの辺まで攻撃してくるとは思ってなかったから、最初は日本の飛行機の訓練かと思ったの。びっくりして親父と2人で近くにあった定置網の番屋に逃げたんだよね。そしてその辺にあった布団を頭からかぶって30分位過ごしたの。そしたら布団の中にいたシラミに刺されて、痒くて痛くて我慢できなかったから外に出ちゃったの。それから近くの山中に逃げたんだけど飛行機に見つかってしまってね。弾がバラバラーって飛んできたけど、大木の影に隠れて助かったね。

 他にも大変だった時あるよ。今の大槌高校近くの裏山に、お袋の実家で避難小屋を建てたんだけど、ある日空襲警報が鳴って、お袋と弟とそこに逃げる途中飛行機に見つかってしまったの。お袋が「逃げろーっ、逃げろーっ!」って叫んで、みんな無我夢中で走った。低空飛行で飛んできて、私達の真上から左右にバラバラーって、機関銃の音がすごかった。でも思えば、私達には当てる気がなかったんではないかな? 当てる気があれば簡単に撃ち殺せたのに…。幼い時だったけど、今でも当時のアメリカ兵の飛行兵には感謝してます。

 

小学校4年生から浜へ親父に引っ張られて

 小学校に入学してすぐの頃はね、吉里吉里は昔から遠洋漁業が盛んで非常に潤ってたの。北洋・中部のサケマスが大漁でドル箱でね。サケマス船が出漁する時は毎年、小学校・中学校の先生・生徒は全員港まで見送りに行ったんだよ。

 私の家はサケマスと関係のない小漁商売してた。小船で延縄漁という漁法でアイナメとかマガレイを主に釣り揚げていたよ。6人兄弟で収入も少なくて貧乏でね。小学校4年生の頃から親父に引っ張られてたね。特に野球が大好きだったから、野球部に入ってたの。夕方に練習してると、家から「待ってるから早ぐ来い!」って電話が親父から来る。夕方から夜にかけての商売だったから、帰りはいつも9時くらいだったなあ。そういう生活の繰り返し。好きなことあまり出来なかったよ。

 中学校卒業後は生活もいくらか良くなったけど、中学校3年間勉強にも集中出来なかったから、卒業後は家業を手伝うことにしたの。それまで使っていた小船から動力船にして、延縄漁を中心にした仕事をしてたけど、数年後、さらに2t位のディーゼル船を造って漁の規模を少し大きくして、生きたイワシやアジを1本ずつハリにつける仕掛けで、主にヒラメ・ヒガレイ・アブラメ・スズキ・アナゴを漁獲したよ。春から夏場は、早朝2時頃に大槌湾目指して出航して、雀島の定置網に行って生きたエサイワシを買って、水槽に入れて漁場へ。投縄場所は海水浴場で有名な根浜海岸だったね。投縄時間は約1時間30分くらい。それから、おにぎり食べて揚縄にかかるんだけどそれが約4時間。その後魚市場に直行して水揚げ終わって帰港するんだけど、往復2時間以上かかったかなぁ。魚市場は競り時間外だったから特定の業者から買い取ってもらって。秋口になると魚の獲れる場所が船越湾に変わって、同じくヒラメ・ヒガレイ等の漁をしたよ。今のように車の時代じゃなかったから漁の水揚げは大変だったね。12月末になると寒さが厳しくなって手がしびれて、生きたエサをうまくハリにかけることが難しくて、その時点でこの商売は休漁になるの。

 延縄漁の時期が終わると、すぐ刺網漁に出て、3月まで冬場も休まずに漁やるんだよ。今考えると、年がら年中何かしら働いてたね。刺網漁は色々な魚が獲れたけど、主にナメタカレイ・スイ・アブラメ・タナゴかな。漁場は大島の北沖に大浅根っていい漁場があったね。ポイントは他にも何箇所かあってね。何艘か仲間の船がいて競り合って商売やっていたんだけど、だんだん魚も少なくなって他の商売への転業も考えたの。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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