東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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80年間、志津川を見つめつづけて

商工会が育む、地域、経済、そして人のつながり

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  • 話し手: 芳賀文吾さん
  • 聞き手: 代田七瀬
  • 聞いた日: 2011年7月23日
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自己紹介―80年ずっと志津川です

 芳賀文吾(はがぶんご)です。昭和5年3月15日に生まれたから、今81歳かな。生まれ育ちは志津川。7人兄弟の4番目。子どもはふたーり。長女は埼玉県にいる。孫は3人。長男は私と一緒に暮らしてて。家内は1年半前に亡くなった。家内は文房具店をやっていて、私は農業を手伝いながら、保険外交員や水産関係会社に勤めて、40歳以降は商工会で働きました。

 農学校は5年間仙台だったど、それ以外は80年ずっと志津川です。仙台や東京に出るつもりはなかった。かえってよ、あまり騒がしいのは好みでなかったから。

 今回の津波で、家は根こそぎ。延べ52坪の二階の建物。今は志津川小学校の避難所から、ホテル観洋に移って生活しています。でも、やっと仮設住宅が当たりました。志津川の沼田に。まだ仮設の建設が始まらないから、移動はできないけど。

 

震災の日―避難所の志津川小学校へ

 私は志津川の海の目の前の高野会館にいて。老人芸能発表会で、300人くらいと一緒にいたから。3階にいたのが、4階と屋上に逃げて。毎年、各地区の老人クラブの人たちが趣味で習っている歌や踊りを発表するの。津波が引いた後に、高野会館から出て、川のふちを登って、橋を渡って、今度は山へ登って、避難所の志津川小学校がある方へ。

 息子は勤めてたから、震災の当日は近くの保育所へ逃げて。保育所から、保育所の児童と共に、小学校へ逃げたの。ここの保育所が避難所だからそこへみんな逃げてたんだけど、ここも危ないということで、息子と私の妹も、保育所の子どもたちと、裏の杉山を通って、志津川小学校まで行った。

 小学校では2カ月生活して、5月6日から8月いっぱいはホテル観洋で生活しました。

 

父―志津川は海だけじゃない

志津川には畑も多く、農林業も盛んだった

 父親は農業共済組合や家庭裁判所の調停委員とか、最後は助役かな。志津川は海だけじゃない。山も多いから農林業がね。農業は養蚕、葉タバコとか。志津川は生糸をやってて、アメリカの品評会に出して金賞とったんだ。旭製糸工場ということで、繭から生糸を取って、生糸を国外に輸出してたの。

 うちでは父が、繭の仲買い人やってた。農家から繭を買って、乾燥して、製糸工場に納めてっていう。農家は蚕を育てるまでにお金が欲しいから、旦那さんいくらか生活費を貸して下さいってことで前もって貸して。だから、必ずしも製糸ごとに買わないで、その前から、いくらか前渡しみたいな恰好でやってた。

 昭和8年頃、昭和の大恐慌っていうのが。家財もなんもなくしたところもあんの。昭和5年頃、私の生まれた頃が一番養蚕が盛んで、昭和12年の時には工場が下火になった。

 

仙台の5年間―ジャガイモ2つがお弁当

 5年間、仙台の農学校に行ったっちゃ。それで14歳から仙台に下宿。この頃、仙台に行く人は1割ないね。高等科(今の中学校)まで行く人が少なかった。学校に入らなければ、軍隊に行かなくちゃいけない。それにうちは農家だから、もしほれ農業関係で家にただいるよりも、何年か仙台に行って来るってことで。兄も盛岡に行ったから。

 あの頃は、一番食糧難の時で、ジャガイモを2つくらいお弁当に入れたのがお昼。私の下宿した所は、農家じゃないから、配給があった分だけで私たちに食べさせねばならなかったから。下宿のおばさん、かなり苦労した。でも、実家に帰ってくれば食料はあったの。結局、いくら悪くても作付しておけばね、ジャガイモだといくらかあるからね。

 私たちの同級生で志願でしていたのが2人いるけれども、今度飛行機に乗るって時点で終戦になって。だから、瀬戸際だったのね。

 



■ 宮城県南三陸町志津川

宮城県南三陸町
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