東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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80年間、志津川を見つめつづけて

商工会が育む、地域、経済、そして人のつながり

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  • 話し手: 芳賀文吾さん
  • 聞き手: 代田七瀬
  • 聞いた日: 2011年7月23日
  • 020/101
ページ:2

農業を手伝う―チリ津波受けても、その年に稲は作れたの

 農学校を卒業して志津川に帰って、農業の手伝い。父親は家畜商も免許をとってやってたけど、公職やってたし、兄貴が県職員になって勤めたから、私が農業手伝って。19歳くらいの時。でも、毎日農夫に頼んで、私は監督みたいな(笑)。米、小麦、大麦、馬鈴薯をやって。農業の手伝いしながら、保険外交員やったり、地元の水産関係会社に勤めたりして。

 22歳の時、農業改良普及所っていうのがいて、そこの指導でもって、農村の青年がただ働くだけではだめだってことで、研究会作れっていうわけ。農業の研究会でもあり、結局、青年団とも同じ。それが4Hクラブっていうやつ。基礎的な部分だけでなく、社会活動とか、会議の持ち方とか、団体としての在り方とか含めて。アメリカから来たんだよね、4つのHね。Head(頭)、Heart(心)、Hands(手)、Health(健康)。

 まずは10人くらいだった。それが各町とか部落ごとに連携して、本吉郡南部の連絡会っていうのを作ったの。ただ部落だけで研究っていっても、狭いっちゃ。で結局、代表者をよせてってことで南部の連絡協議会も会長やって、県の役員まで。会は、今別な名前であるよ。

 そして、昭和34年の12月に29歳で結婚して、昭和35年にチリ津波で、水産会社の工場が閉鎖になって退職。チリ津波の時、家は床一面がかぶったね。床1m。持っていた水田も、8反歩の内、3反歩は耕作不能になって宅地にした。2反6畝は床苗施設として、賃貸契約して、2反4畝は作り分け。収穫した分の半分は作ってもらってる人に農夫賃として払う。あと半分は土地代として頂く。チリ津波は一回かぶったけれども、さっといっただけだから、その年に稲は作れたの。海水は流れたけれども。でも今度の津波は、このようにいかねぇから。

 

商工会に入る―今でも「商工会の芳賀さん」って言われるんだよね

 ただほれ、このへんで、商工会の指導員になりなさいと、農業だけではだめだから、商工会に来て、商店の経営相談だのに乗ってくれと役員の方に勧められて、商工会に入って。定年まで22年間商工会に勤めたんだな。昭和48年6月だ、43歳で商工会指導員になって、最後は事務局長を務めて、平成7年に65歳で定年退職。今でも町歩くと、「あらー商工会の芳賀さん」って言われるんだよね。

 

商工会とは―指導員になったのは、私が4代目

 商店が経営とか金融とか納税とか相談するのに商工会っていうのがあって、国で一町村に一つの商工会を作るってことで。漁業関係は漁業協同組合があるし、山の関係には森林組合あるけど、観光や工業関係だとか、加工場だとかは商工会の傘下。志津川は加工場が多かった。加工場は、海苔、ワカメ、あとホタテ。

 昭和30年あたりかね、商工会設置法ができたのは。指導員になったのが、私で4代目だったかな。指導員とか会計とか、職員は7人だったね。

 例えば、志津川の文房具屋さんの経営がうまくいかなくなった時に、その相談にも乗るの。金融面で困った時には、国の無利子のやつだとかを紹介して。商工会で直接貸すんでなくて、政府の説明して金融機関紹介する。

 税務においても、商店は税金を納めなくちゃねぇっちゃ。その場合には、申告で毎日帳面を付けていけばこういう利点がありますよとか、節税関係とかも。

 人を雇いたいという時には、こういう基準で、労働基準法に沿ってやりなさいと。パートを頼む時は、最低賃金を下回らないようにやんなくちゃだめだよとか。

 組合を作ったりなんかのお世話も商工会でやる。民宿組合の人は民宿組合の人たちで、その人たちの研修の場を持つために衛生の関係の指導してもらうとか、民宿だけの税務対策、申告だのなんかこうやりなさいとか。床屋さんも、自分だけの技術でやったって駄目だから、年一回、講師を呼んで講習会して。その分は商工会が負担しますよと。個々で呼ぶわけにはいかないから。

 お店をやる時に商工会に入らなくちゃいけないわけじゃないけど。でも、入った方が楽だということで、入りなさいと言ってる。それに、商工会としては結局入ってもらわなくちゃ困るんだ。会員数が少なければ、国からあんたたちのやり方が悪いからって言われっから。ま、大きい所さは、会計士や弁護士やらが全部入っているからね、指導もなにもいらなくて独自でやれっけど、会費をもらって協力もらわなければ。

 

地元から離れていく商工会―昔は町出身者をなるべく置いたけど…

 オートバイで、町内全部回って、歩いて、聞いて相談受けて。必ず一軒か二軒かお茶2、3服飲んで、ああだこうだって世間話しながらして。それで初めて自分のものにもなるんだよね。ただパンフレット説明するだけじゃなくて。だから今でも、散歩して人に会うと、「ああ、芳賀さん、何年ぶり?あの頃は良かったね。」なんて。結局、昔そういう風な付き合いやったからね。ありがたいね、今もそれがあるってことは。

 ただ、私たちは個人で受け答えするわけでねぇから。国からちゃんと指針が来てっから、それを説明したり、アドバイスする。国の制度を商店に普及して、なるべくいいように商店を盛り上げていくことが仕事だから。だから、給料は国の補助事業で来てます。

 でも、今の商工会は、県の連合会の人事権で、紙一枚で県職員と同じようにどこへでも行くの。昔は、町出身の者をなるべく置くようにしていたのね。そうすれば、常に、「あ」「お」って語って、慣れ合いではないけれども、指導でも楽なんだよね。ただ他から来ると、あれ、あの人誰だね?こんなこと語っていいんだべか?っていうことになってしまうっちゃ。だから、今の会員の連中も、しょっちゅう商工会を利用する人たちは、商工会のありがたみがわかっけんども、遠くの方に行くと、年に一回か二回しか会わなかったり、商工会は用がないから行かねぇ、やめるという人が多くなる。

 おととい商工会に行ってみたけれども、メンバーがほとんど若くて、それに全然地元の人がいないから、もう行かないようにしてるの。

 当時担当していた規模は志津川町。商工会の組合に入ってるのは約500だったな。商店、事業所、工場。今は、志津川と歌津が合併して南三陸町になって。だから、広範囲になるから、なおさら末端の商店の連中は、恩恵がないというのがね。きめ細かい、人情的なっていうのはなかなか。

 



■ 宮城県南三陸町志津川

宮城県南三陸町
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