東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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吉里吉里の鎹(かすがい)に

潔癖で一本気な広報担当

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  • 話し手: 芳賀廣喜さん
  • 聞き手: 大崎智子
  • 聞いた日: 2011年7月10日
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自己紹介

 名前は芳賀廣喜(はがひろき)です。昭和22年11月28日生まれの63歳です。出身は吉里吉里で、生まれてから33年間暮らしました。吉里吉里の家は弟が跡を継いで、私は大槌町末広町の女房の実家に30年間暮らしました。

避難所の副本部長・藤本俊明さんとの打ち合わせ

被災する前は女房と女房の兄貴の3人暮らしでした。子どもは息子2人が東京にいて、娘1人は吉里吉里に嫁いで1年、1歳の孫がいます。震災前は新聞代理店業を営んでまして、地震があったときは自宅兼店舗にいました。吉里吉里の避難所では、災害対策本部の広報担当ということになっています。

 

網元の子に生まれて

 私は昭和22年生まれだから、団塊の世代の第1回生です。ベビーブームで子どもの数がいちばん多いから、大学や高校の数が増えた時代ですね。小学校も中学校も吉里吉里です。高校は当時の学校名で言うと釜石商業高等学校、現在は統合して釜石商工高等学校になっています。私たちが高校卒業したのが1966年、昭和41年。その4年後が70年安保ですから、良くも悪くもそういう時代の代表ですね。若い人たちが経験できない経験もしてますよ。ラジオだって全家庭にあったわけじゃなくて、ある家庭にたむろしたり、カラーテレビだって、東京オリンピックのときに全体の3分の2も普及してなかった。

 もともとうちは、漁業やってたんです。定置網漁業の網元をやってましてね。正直なところ、私は漁業が苦手でねぇ。かなづちなんです。変な話なんですけれども、じいさんに海は危険だって厳しく言われて、泳がしてもらえなかったんですよ。それで、海に行っても泳げないから怖さもある、泳ぎたいっていう願望もあったんです。ここではみんな自然に泳げるようになりますから、友だちに教えてくれって言っても、お前のおじいちゃんに怒られるからダメだ、って。じいさんも網元でしたから、結局間接的に影響力あったんですね。頭から落ちたらたいへんだ、と鉄棒もさせてもらえませんでした。それに生臭いの嫌いなんですよ。魚も小さいころに遊び程度で触ったくらいです。

 今になって推測すると、じいさんにしてみれば一つの帝王学なんでしょう。漁業に直接触れなくても、大事なのは読み書きソロバン、文章読めて書ける、そこそこ計算できるというように、頭さえちゃんとしていれば網元としての仕事はできるだろう、とじいさんとか親父が考えたことでしょうね。ほんとは、自分で実践するのがいちばんいいんですけれども。じいさんには孫が何人かいるんですけれども、私がいちばんかわいがられた。じいさんが怖かったことはないですよ、悪意はないですから。

 高校入試のとき、内心私も進学校に行きたかったんですよ。親父は大学行け行け、言ってたんです。うちの親父っていうのは、小学校をちゃんと卒業してないんですよ。いくら昔でも、小学校くらいは出ていた。親父は字は達筆なんですけれど、字を知らないから書けない。世間から冷ややかな目で見られていた。だから、学歴にこだわっていたんじゃないですかね。でも私は、その親父の意見にささやかな抵抗をして、進学校には行かなかったんです。意固地になって…ささやかな抵抗です。商業高校に入ったものの、本当は、退学してもう一度進学校受けようかなぁ、と思ったくらい進学校に行きたかったんです。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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