東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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これからも、ずっと吉里吉里で…

大好きなソフトボールと孫とこの海と

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  • 話し手: 近藤欣彌さん
  • 聞き手: 中村会美子
  • 聞いた日: 2011年7月10日
  • 022/101
ページ:2

小学校入る前からかごしょって、薪拾って…

 私は3人兄弟の長男でした。4歳の時に父親がなくなってからは、母子家庭です。財産があるわけでないから、お袋は自分で商いをしてましたね。行商って言うんですかね。豆腐だとか食料品を仕入れにね、釜石まで蒸気機関に乗って行くんですよ。当時は吉里吉里もお店がたくさんなかったので、行商ができたんでしょうね。お袋はかごしょいながら、町を全体的に回ってたんですよ。遊ぶ暇なんかなかったですよ。小学校に入る前から、お袋の商売や、薪ひろいとか手伝ってたから。今でも、当時のおじちゃんとかおばちゃんに会ったりすると、「昔の?」なんて、懐かしい話になることもあるんです。小さい頃の経験のおかげですね。少々の苦しいことには耐える自信もありますし。今の子供には、きっと信じられないような話ですけどね。

 昔の家ですか?吉里吉里の中心にある小学校を下りたくらいに神社があるんですよ。そう、あのきつい階段を登ったところにある神社のすぐ右側に家が残ってたでしょ。そこが私の家でした。高台にあったので、地震があるとみんなが「津波だ!」って逃げてくる場所だったんです。今回水をかぶったんですよね。

 

釜石の工業高校で

 家が貧しかったので、本当は高校入れる状況じゃなかったんですけどね、まわりの人たちの厚意で。当時、岩手県内に3つあった工業高校のうちの1つ、釜石工業高校さ入りました。そこで電気科を専門に勉強してたんです。

 釜石までは山田線で40分くらいかけて通ってましたね。釜石の駅から学校が相当遠かったんですよ。普段はバスを使ってましたね。5キロか6キロ、それ以上あっただろうから、歩いたら1時間はかかっちゃいますもん。

 私が高校生の時に、チリの津波を経験したんですよ。学校に行く前だったので、朝早い時間でしたね。あの日は列車が通らなかったんで、同級生4人で、線路づたいに山超えて、学校まで歩いて行きました。何時間かかったんだろう。釜石まで20キロくらいかな。結構長い時間歩きましたよ。

高校時代は蒸気機関車の清掃アルバイトで家計を助けた

 部活はやってません。そんな余裕なかったですから。休みの日には、アルバイトばっかりです。アルバイトはね、薪を運んだり、肉体労働もやりましたね。一番思い出に残ってるのは、釜石の駅舎で蒸気機関車の清掃の仕事ですかね。一番割が良かったんです(笑)。他にも、学年が上になった時に、電力会社の漏電調査とかお手伝いしたことも。本当に色々なことをしたと思いますよ。

 

どこに勤めてもやっぱり吉里吉里

 高校を卒業した後は、電力関係の会社に勤めていました。昭和36年に入社して、60歳まで42年間働きました。岩手県内での転勤は何度も経験しましたよ。釜石に山田に、久慈に盛岡に…。通える距離の限りは、吉里吉里から通勤してましたよ。吉里吉里から離れたくなかったんです。単身赴任をしていても、土日が休みの時は、必ず吉里吉里に帰ってきましたもん。できる限り地域のイベントに参加して、みんなに忘れられないようにしようと(笑)。だって、定年して帰ってきたときに忘れられてたら…、さみしいじゃないですか。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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