東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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麦畑越しにあった海

津波がきたら逃げるのさ

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  • 話し手: 倉本俊博さん
  • 聞き手: 西田一平太
  • 聞いた日: 2011年7月31日
  • 023/101

漁協職員から公民館長になって

 おらぁ、あれ、ほんとに吉里吉里生まれで吉里吉里育ちだから、もう吉里吉里弁丸出しだからさ、だからそのへんはよしなにお願いします。

 昭和24年に生まれて、吉里吉里のなに、まだ幼稚園って言わねえんだな、あれな。そんなとこさ行って、吉里吉里小学校に入って、吉里吉里中学校さ入って、釜石の高校に3年。あとは、ちょこっと長崎さ行って東京で1年いて、昭和49年に吉里吉里の漁協さ入って平成15年まで勤めたんだな。そう、この津波のいちばん被害を受けた漁協に勤めてましたよ、私は。で、その後公民館さ勤めんの8年だから、経歴っていっても、それだけです。俺、仕事あんまり変わってねえから。

 公民館というのは、ありゃ社会教育の一環だから、生涯学習課っていう中に中央公民館っていうのがあって。それの分館としてとおぐれえあるのかな。全部、資料なくしたからな(笑)。その地域地域によって性格が違って、赤浜とか安渡(あんど)とか人口の少ないところじゃ行事でも何でも地域の人の中心になってるしね。でも、吉里吉里の場合は町内会組織が強いから、もう全部そっちさ任せてんのさ。公民館の利用者は年間で延べ8,000人程度だけどね。

 俺たちは、ちょうど漁協の人員削減の頃の職員で、人員削減の旗頭だったから自分からやめなきゃダメだったわけだ。で、やめて1年間ブラブラとやって、この話が来たんだ。だから、みんな1年の期限付き職員なんだわ。で、なったんだけど、俺、こういうの好きでねえんだよ、ほんとは。行事は好きな人がやればね。だから、俺は奉仕するとすりゃ、もう町内会だの、ああいうの全部任せたの。

 

吉里吉里生まれ、吉里吉里育ち。でも地域はよく知らない

 俺たちが子どもの頃っていうのは、まあそのへんで遊んでるくらいです。真ん中の2丁目あたりの人たちからすれば、山側の俺の家建ってるあたりなんか田舎の田舎だよ。道路もなくてさ、麦畑の向こうだもん。大変だったのは2丁目。もう同じ吉里吉里の中でも線路の向こうっていうのは、もうなんつうの、よその町さ行くような気がしてね。友だちがあっちにいだがら、何回やったかな、道路越えて線路越えて。

 遠出っていっても、高校に入る前には年に2回釜石に行ったくらいか。向こうに親戚がいだがら、冬休みと夏休みに1人で行って、食堂さ行って映画を観てくるのが楽しみだった。そのころは大槌に抜ける国道が無かったから、鉄道の線路の上歩いて行った。そのへんの山を越えて歩くのが面倒だから鉄橋渡ってね。もう1つは、赤浜のほうの海岸沿いをぐるーっと回ってね。これがいちばん通れる道路だったから、バスも全部そっち走ったからね。大槌までどれぐらいかかるのかな。案外、子どもの足っていうのは速いからね。トンネルなんか汽車がいつ来るかわかんねえから怖くて走るんだもん。

釜石の高校まではSLで通学した

 高校からは釜石までSLで通学した。俺が16のころで、釜石まで20分か25分ぐらい。高校生だから、汽車さ乗ってくときなんか、ぎりぎりで走ってくでしょう。そうすると、前に機関車があって、で客室さ入るときのタラップのような間があるでしょう。あそこが全部空いてるんだよね。仕方ねえから、そこさ乗ってくわけだ。そうすると、機関車の真っ黒なススが…。あの煙をまともに受けたらすごいよ。鼻の中が真っ黒くなってね。うん、まあね。中さ乗れたことはないども、窓開ければ煙がへえってくんだものね。

 朝一番だから6時半にここ出て、帰ってくるのが8時半だかの最終。10時に家に着いて飯食って寝て、翌朝起きて。365日それだったべ。だから、吉里吉里の地域っつうのは、あんまりわからねえのさ。釜石も詳しくねえけどね。昼の学校行ってるっつうだけだったから。授業終わった後は柔道のクラブだったし。厳しい先生だったから、あのときは正月の三が日とお盆の3、4日ぐれえしか休みなかったからさ。俺、地域っていうのはあんまり知らねえんだよな。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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