東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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  • 話し手: 田中茂さん
  • 聞き手: 吉野奈保子
  • 聞いた日: 2011年7月10日
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漁業から、水産加工へ

 名前は田中茂(たなかしげる)。昭和25年11月19日生まれ。60歳です。

 うちは漁業会社です。父から引き継いで私で3代目。漁業と造船をやって、そのあと水産加工をやるようになりました。

 

 吉里吉里は昔から漁業一筋の町でした。北洋に鮭・鱒出漁。昔はイカ釣り船もかなりあったし、あとはサガ縄。サガっていうのはメヌケのことです。赤魚の親分みたいな底魚。昔は襟裳から千島にかけて獲りにいったみたいです。

 養殖をやるようになったのは俺が小学生の頃だから、昭和30年ぐらいかな。三陸で若布を養殖できないかっていう話があって。みんながやるかやらないか迷っていたときに、うちの爺さんが「やろうよ」と言い出した。大槌町でも最初でした。それから賛同する人が増えて、乾燥場まで作ってやった。でも、うちは養殖が本業でないから、すぐに撤退しましたけどね。

 その時代、うちは漁船が主でした。鮭とサンマとマグロをとる商売。それを兼業船みたいな感じでやっていました。当時は木造船です。造船所はうちと、もう1軒あったね。船大工を使って、船をつくっていました。

 もう20年ぐらい前になるかな。うちの爺さんはちょっと物好きだったからね。最後は10トンの船を自分のためにつくりました。うちの山のスギとかケヤキを使ってね。

 木造船をつくらなくなってからは、修理船をやっていました。修理は鉄船だね。エンジンの修理はうちでやって、ペンキはペンキ屋いたし。なるべく自分で賄うような、そういう会社でした。

 昭和40年代の初めから水産加工の仕事も並行してやっていました。平成11年に国際的な規制があってマグロ船を減船したときに、漁業はすべて止めたような形です。多い時期は7隻ぐらいの漁船を持っていましたけど、それをみんな処分して。造船所の方は残そうかどうしようか考えたけども、その翌年には辞めました。

 冷凍工場は吉里吉里ではなく、隣の安渡(あんど)地区の港にありました。加工で一番多いのは鮭ですね。鮭とイクラ。あとはサンマやスケソウ(スケソウダラ)の干物。津波が来たときはマダイの加工、今年のサンプル作りを一人でやっていました。

 

工場に津波が来た

 地震は2時40何分だったかな。大きな揺れでした。揺れが長かった。で、加工場のセメントの土間にすぐにひび割れが起きました。「これは補修にすごく手がかかるなあ」と、そのときは、まず思った。

 外に出たら、凍結庫の上のクーリングタワーがすごく揺れていて、屋根から飛び落ちそうな感じだった。「もう、ただごとじゃねえなあ」と思っているときに、地面から泥水が湧き出してきた。液状化現象のひとつかな。それで社員と、車や道路にあるものを高台に持っていって。工場のシャッターを閉めて。そうしたら「大津波警報が出たよ」って声が聞こえた。それで逃げたんさ。

 

 うちの工場は、防潮堤の外側、海側にあったんです。埋立地です。だから何か来たら、みんなで逃げるという気持ちは持っていました。満潮になると工場の低いところには、海水が中まで入った。年に4?5回は入ったかなあ。「ここは設計ミスだ」って、うちの親父はよく言っていました。普段から長靴を履いて商売していますけど、「今日は排水が悪い」って、そんなことはよくあった。だから危険性は重々感じている。「いざとなったら逃げるしかない」ってね。

 あと、津波はいろいろ経験しているけれども、今回、今までとちょっと違うのは、潮があまり引かなかったことだね。「水が引いてから津波が来る」っていうのが頭にあるから、海を見ながら片付けしていた。「これくらいなら、まだ大丈夫だ。よし、これやっとけ」っていう感じで。

 昔から「地震が来たら30分以内に逃げろ」、「早いときは15分でくるよ」と。それは昔の人の言い伝えであったから。しばらくして限度だっていうことで、みんなを帰した。

 それから私も防潮堤、越えてきたんさ。そうしたら警察の方が一人、監視をしていた。だからそこへ行って、津波の到達時間を聞きました。ところがその人は「わからない」って。逆に「どうなったら来る?」って聞くんさ。津波がわからないんだよね。だから「あそこ見てろよ」と。「今、船が止まっているでしょ。船は前よりも30センチぐらい下がっているから、これがもっと下がるようだったら完全に来るから逃げろよ」と、その人に言った。

 私は防潮堤の内側に、避難のための軽トラック1台置いていたから。そこまで歩いて行った。5分ぐらいかかるかな。そうしたら、まだ3?4人、別の工場の連中が立ち話している。それに、ものの1分ぐらいかな、加わって。「俺は逃げるから、早く逃げろ」って。でも、その連中はぐずぐずしていたから、そのあと津波に呑まれたの。

 で、200メートルぐらい離れたところに自動車工場があるんだけど、そこの親父さんが道路を歩いていたから車に乗せて。ところがその人は途中で降りるって言い出した。「ここでいいよ」って、その人言うから、鉄橋の下で降ろしたの。「このあたりに家があるのかな。ここから高いところに上がるんだろうなあ」と思って。私は川沿いに上っていった。

 最終的に国道まで出た。大槌町のバイパス抜けるときは渋滞気味だったんだ。1分ぐらい、そこで時間をロスして。で、川を見たら、水が上がってきた。「これはやばいなあ。これは、どこに行くったって行けないなあ」と思っていたら、前の方がちょっと空いたんだね。私、軽トラックだったんで、すっと逃げて、バイパスを走った。で、トンネル越えて安渡小学校の裏手まで来て、車停めたんさ。そのときはもう津波が来てたな。ドミノ倒しじゃないけれども、土煙りあげながら建物とか倒れていって、「ボンッ」とガス爆発の音がして火の手があがった。

 だから、あと何分か遅れていたら、俺も亡くなっていたと思う。後ろ見る余裕もなくて、津波が来ているかどうかもわからない。ここなら大丈夫だって停めたとき、そういう状態だった。

 それであとはトンネル越えて吉里吉里に出ました。うちの方はお陀仏だなと思ったから、後ろ側の細い道路、小学校の上に抜ける道路があるから、そこまで軽トラックで来て、小学校の避難所に行った。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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