東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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1年中漁に出ていた。楽しかったよ

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  • 話し手: 笹谷健悦さん
  • 聞き手: 森山紗也子
  • 聞いた日: 2011年7月10日
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小学校出てからずっと漁師

 名前は笹谷健悦(ささやけんえつ)。昭和15年の3月25日生まれ。今71歳。前の津波(昭和8年)のときは生まれてない。チリのときもいなかった。船さ乗ってたから。津波でやめたけど、小学校終わってからずっと漁師。中学校も半分行きつつ半分はイカ釣りしてた。

 太平洋戦争で亡くなってるからお父さんの顔は分かんねが、漁師だった。自然にここで育って親戚の船に乗って自分も習った。中学校終わってからはマグロ船だの、サケマス船だの、昭和40年くらいまで1年中ずっと船に乗ってたね。

 だいたいうちの船は一航海40日くらいだな。ハワイ沖行って50日。魚は東京築地でおろす。仲買でおっきいとこは大東水産、東京水産ってあって、俺は大東水産だった。船によって違う。

 マグロ船は11月の末から4月までだ。あとはサケマス、北洋。北洋ってのは船団で、母船をつけていくんだ。母船1艘に独航船が35、6艙ついていく。俺の独航船は85トンから82、3トンの船だ。普通20人くらいが乗る。その船団がいっぱいあるんだよ。大きい会社のマルハとニチロ直営で。俺はマルハの子会社の函館水産だった。大東水産に所属するのはマグロ漁んとき。漁によって所属する会社が違うんだ。でも、同じ船で、サケマスでしょ、サンマ漁でしょ、あとマグロ漁も行く。1年のうちに3つ商売すんの。5月十何日から北洋船。それは7月中ころまで。11月のマグロ漁までの間、サンマ漁するの。9月の20幾日に解禁になって。サンマ船も小型船、中型船いろいろあっけど、俺は大型船にこだわった。乗組員は、どの漁でもほとんど変わんねえな。サンマんときは22、3人くらいか。サンマはほれ、昔は機械使わず手でやんねだから、人が必要だった。今は機械だからね。それでも今80人くらい乗っている。

 サンマが寄れば網やって、それですくって上げる。底引き網のようなサンマ棒受網(ぼうじゅあみ)で獲る。海でのことだから、吉里吉里の人だってあんまり見たことない。

 

津波んとき

 津波んときは俺トラック運転してたけど、走れなかった。それから倉庫さ行って犬連れてきて、それからうちさ帰って来て、車さ置いてさ、それから上にある小学校さ、かあちゃんと行った。いっつも訓練でうちのかあちゃんが行ってんだ。リュックさしょって。

 このごろ余震があるけど、今はもう流されるもんはなんにもない。50年貯めたもん、5分で持ってかれた。わっときてわっと持ってった。船3杯、車3つ流された。みんな流された。

 仮設には一番先に入った。吉里吉里中学校の校庭にある。1ヶ月ちょっとかな。元の家は2丁目、神社の通り。あれは昭和8年ですねん、生まれてなかったけど前の家は海岸に立っていた。それで昭和8年の津波で今の2丁目を調整しだんだ。津波がこねえっていう調整。もともとの海岸の家は今回の津波で海の中。地盤沈下で40センチくらい下がったから。防波堤の高さ見るとそうだもんね。あれは、何年に作ったんだかな。元のところに家建てたいから早く線引いてほしいんだ。俺、年だからよ、このごろ待ってられねんだ。俺はほんとはすぐ、建ててんだ。決まればね。なんだか県でも大槌町でもはっきりしない。俺それ一番言ってんだ。今度は小さい家建てる。

 かあちゃんは67か。4つ違い。子どもは嫁さんに行った人もあるし、今1人だけ家にいる。女の子ばっかし。おっきいの1人はこの津波でさ、盛岡に移った。あと2番目は東京にいる。一番下はうちにいたった。うちから薬剤師として吉里吉里の薬屋にいたったのさ。店は津波に流されたけど娘は大丈夫。今年花嫁に行くか、来年行くか。さびしくはないがな、かかと2人っこで。

 

チリ津波んとき

 35年のチリ津波んときは、仕事で函館から出た朝だった。そんときは木の船だった。夜がこうすらすらと明けて。襟裳岬とか潮が早いからいっつも波立ってるのよ。それだがなあって思ったのさ。そんときは19歳で初めて北洋船乗ったばっかで、まだあんまり経験ないからな。俺は船のわちとってた(運転してた)ら船でやけに揺れあったの。そうしたら朝食のときに局長から、おい津波あったぞって。ああそうか、さっきのがそうかって。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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