東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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  • 話し手: 芳賀キエさん
  • 聞き手: 若尾健太郎
  • 聞いた日: 2011年9月24日
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自己紹介

 名前は芳賀(はが)キエと言います。昭和12年6月25日生まれ、74歳です。ここ吉里吉里に来てから50年になるけど、今まで養殖漁業やってたの。下閉伊の山田町豊間根っていう所の生まれ。小学校から結婚するまで、そこにいました。実家の方は農業でした。だから、8歳の時、戦争になったんだけど、食べ物に不自由って思ったことがなかったのね。今回のこっちの方が大変だよな。

 避難所では、はじめの3日くらいは、子どものこぶしくらいのおにぎり1個。1個ずつ。あとはパンとか。ほら、何も入ってこないし、避難所さもね、やっぱり。5日か1週間くらい経ったら、物資が届いてっからは、普通にご飯が食べられるようになった。婦人会のお母さんたちが、ご飯支度してっけて、普通のご飯と味噌汁と食べた。その時は嬉しかったね。涙が出てきましたよ。

 

仕事と家族

 父さん(夫)は、船さ乗ってだったの。大きいタンカー船に。父さんの兄さんがね、ワカメとホタテの養殖をやってたの。だけど、体が弱かったっていうのもあるし、軌道にも乗らなくて。父さんが60歳ちょっと前くらいの時に船乗りを辞めて、養殖の後を継ぐことにしたの。それから一生懸命、私とお父さんの2人で養殖を手伝って。その後、このお兄さん夫婦が病気で、1年の間に2人とも亡くなったのね。だから、夫の家族みんなの面倒を私たちが見ることになったの。で、一生懸命、私たち夫婦が養殖の仕事を軌道に乗らせて、うちも建てて。いくらか生活も楽になったなぁ、てた時、これが来たのね。3月11日。みんな、父さんも、おばちゃん(夫の姉)も亡くなって…。おばちゃんは私たちの家に避難してきてて、父さんと一緒にいて津波にさらわれた。お父さんは77歳だったの。その時まで元気に仕事してた。

 父さんは、タンカー船の頃は、サモアってところにも行ったっけね。そして、この辺だと、北海道の釧路。船が入る所に私も行ってきたの。サモアまでは行けなかったけども、北海道にも2回行って、1人で歩いたの。あと四国のね、小豆島つう所にも行ってきた。小豆島行って、金毘羅さまお参りして。船がここの港に入るよっていえば、私は汽車で行って。で、石巻にも行ったし、浜松町、東京の築地さも行った。父さんと一緒になったのは、それがいいかなと思って。年に2回くらいかな、休暇があってきて、船がどこそれに入って、何日くらい泊まるよって言えば、私がこっちから出ていって、合流したの。だから、そうやってきて、これから一緒に楽していきましょうと思った時に津波が来た。

 ばあちゃん(夫の母親)は90歳ぐらいまでは元気だったの。96歳で亡くなるまでは、ばあちゃんの世話をしながら、一生懸命、養殖の手伝いをしたの。ワカメ、ホタテの養殖を。ワカメだと、ワカメを茹でて、塩蔵しながら、タンクさ詰めたりしてた。男と一緒にやったんだべ。いっつも弁当持って、父さんと毎日仕事してやったの。津波で流れる前はね。この年になるまで、車も運転して。車も2台流されたから。

 私は、津波になって、がっちり痩せて。6キロ体重が減って。今まで力仕事して、年に合わないくらい健康で頑張って働いとったからね。船も、2艘あって、ウニを採ったり、アワビ採ったりする小漁(こりょう)用の小さい船と、塩ワカメ採りに行って収穫すっ時の船ね。ここの倉庫も船も全部流された。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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