東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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ワカメ一面に広げてた、あの砂浜はどこへ?

思い出したくない、でも、忘れちゃいけないあの日

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  • 話し手: 釜石澄子さん
  • 聞き手: 辻るり
  • 聞いた日: 2011年9月23日
  • 039/101

自己紹介

 名前は釜石澄子(かまいしすみこ)です。昭和25年12月1日生まれ。60歳です。

 吉里吉里生まれの吉里吉里育ちで、動いたことないです。

 今、一緒にいるのは、主人と、そのお母さんと。3人です。子供は娘と息子がいますが、娘は隣の安渡(あんど)に嫁いで、弟は埼玉の熊谷で勤めてました。被災前は安渡地区で、10人ほどの女工さんと一緒に、水産加工の仕事をしてました。

 

砂浜一面にワカメ広げてたんだよ

 小さい時から、はぁ、夏になれば海で泳いで、3月あたりから、ばあちゃんやお父さんお母さんと、マツモ(ワカメの仲間)や岩海苔、ヒジキなんかを採りに行ってたんですよ。岩場は滑るでしょ。だから、じいちゃんが冬の間に作ってくれたわらじを履いて行ってました。

 実家のお父さんはね、元々は水産加工業してましたけど、養殖始めるの早かった方で、最初は海苔の養殖をして、ちょっと失敗して、それでワカメの養殖してました。

 養殖のワカメは塩蔵にしますけど、昔は天然の昆布とかワカメっていうのは、砂浜に全部広げたんですよ。私達の世代は、小さい時は、みんな家の仕事手伝ってましたから。ワカメの時にはもう、あの浜にさがって、干し方手伝ったりしていました。雨が降るときは、ワカメの上に砂をかけたりしてね。もう、浜いっぱーいにワカメ広げて、ずっと向こうまで。ちっちゃい時だったからかな、すごく広い浜のように思えてました。

 

3月11日

 津波があった時は、私、安渡の方でした。工場が安渡にあるもので。市場のすぐ上の前なんですよね。まさに、海のすぐ目の前です。

 地震が長かったので。地震が来た時に、社長さんが、とにかく外に出てっていうことで、外に出て。今までの地震と違って長かったものですから。もう女工さんたちでこうして(体を丸めて)、収まるまで、ずうっとやってました。で、津波警報が出たから、とにかくみんな避難しなくちゃだめだからっていうので。でもなんか、パニックになってね。津波のサイレンが鳴ったっていうんですけど、全然記憶がないんですけ。とりあえず、休憩場の方に行って、荷物を持って車で行ってたんですけど、どうしようかって。車で行った方がいいの?走って逃げた方がいいの?って。車、持ってくればよかったな、なんて後で思ったんですけども。

 そいですぐ、後ろの小高い所に、とにかく上がるっていうことだったんですけど。上がるっていったって、どこから?って。その前はね、津波来たらここ登って逃げようねって話をしてたんですよ。ところが、いざとなったら登れなかったんです。だめで。

 5、6mだと思うんですよね。でこぼこで、足が悪い人もいたもんで登れない。やっぱし道路のまんま行こう、ということになって、ちょこっと歩いたんですけど、社長が危ないと思ったんじゃないですか。「ちょっと待って」って言って、「乗れ」って言って。

 そして、道路のまんま、すぐ上の所に行ったんですけど。そこは、チリ津波も水が来なかったから大丈夫だろうということで、そこで結構みんな見てたんですよ。帰る人は帰ったのかな。自転車で帰った人もいたし、男の人たちは、やっぱりすぐ自宅に走ったんですよ。残った人たちも、その小高い所でちょっと見てたんですけど、社長はシャッターを閉めて、大事なカバン1つだけ持って、鍵を閉めて、一緒に上がって行ったんですけど、目の前まで来ました。

 一度もう、それ見てたんですけどね、どんどんどんどん堤防が大きくなってくんですよね。水が引くから、堤防がだんだん高くなって見えるんですよね。目の前で工場があるのをばぁーっと、なんか全部水入るの見てたんですけど、入って来るっていうよりもね、私の目の前で、なんちゅうんでしょうね、下から水があふれ出てくるっていうか。本当にあふれ出る。堤防のブアーッとこう、どんどんどんどん水があふれ出てくるような感じで。ええーと思って、どっからこの水が湧いて出てくるんだろうっていう感じで。どんどん、わぁーと来て。こっちに来れば、すうーっと後ろの方がなくなるじゃないですか。全然それがなくてどあーっと、とにかくどんどんどんどん。

 そのうちに、あ、ここも危ないってことで、とにかくまた逃げました。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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