東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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戻ってきた故郷、志津川

これからが一番いいのね、志津川は、夏が

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  • 話し手: 山形利郎さん
  • 聞き手: 代田七瀬
  • 聞いた日: 2011年7月24日
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自己紹介 ―現在も気仙沼や石巻で仕事してます―

 山形利郎(やまがたとしろう)です。今ね、63歳かな。昭和23年6月28日、宮城県の南三陸町志津川の生まれ。結婚はしてないので独身。2歳上の姉がいるの。甥は2人。3月の震災で家が流されたから、今は志津川の隣の歌津の仮設住宅に住んでます。

 中学卒業するまではずっと志津川。卒業してすぐ、大工として東京に行ったの。その後は仙台。ずっと大工をしていた。8年前に志津川に戻ってきて大工してたんだけど、5年前に体を悪くして手術してからは大工ができなくなって、今は電話線の工事をする仕事をしているんだ。震災復興の関係で仕事が忙しいの。今はね、気仙沼とか石巻で。

 

震災の日

 3月11日は、仕事に行っててね、北上町に行ってたんだな。そこも同じように被害を受けてたから、帰ってこられなかったの。1日目はその町のお寺に泊まって、次の日は、南三陸町戸倉地区在郷に車は置いて、歩いたのよ。で、南三陸町の志津川のホテル観洋まで歩いてきて、2日目はそこのバスに泊まって。3日目に、志津川に入る所の橋がないから遠回りして、1か所橋が残ってた所まで歩いて行って、橋を渡って来たの。たくさん歩いたな。結局、3日目に志津川の中心部に帰ってこれてね。すごかった。びっくりしたよ。志津川に戻って来たら何にもないんだもん。

 一番最初、避難所になってる志津川高校に行ってみたの。避難してだれかいるかなと思って。隣の家の人とかはいて。小さい頃おやじは亡くなってて、震災の前まではおふくろと暮らしてたんだけど、避難所におふくろはいなくって。

 親戚のおじさんで、大工時代の先生でもある人、親父って呼んでるんだけど、その親父とおばさんも行方不明。だから、3人行方不明。この前も、姉と義理の兄貴と、葬式の相談してたんだ。だから今はね、やっぱり津波でのことしか考えられない。

 家もね、もう元あった所には家建てられないから。許可出ないから。どっか、高い所削るのかな。どうなのかわかんないな。やっぱりね、今まで住んでいた所がいいもんね。元の場所にってね。まぁ、難しいと思うけど。

 

2人の親父 ―親戚のおじさんが、俺の所に来いって―

 おやじ(父)は大工じゃない。全然違うの。志津川で床屋さんやってたの。でも俺がね、1歳半ぐらいだって言ったな、おやじが入院したから。それで、おふくろが床屋始めたのね。手習いみたいなの覚えて。おやじ、入院して1回も帰ってこなかったから。だからほれ、一緒にご飯食べたこともないし、おやじと俺、全然わかんないんだ。病院は遠かったから、行けなかったの。おやじが仙台の病院で亡くなったのは、俺が中学校3年生の時だな。2月だな、寒かったんだ、あの時も。

 俺、床屋はっきり言って嫌いだった。逃げてたの。大嫌いだったの。だから床屋は継がなかった。今だったらやってもいいなと思うよ(笑)。夏場は涼しい所で、冬はあったかい所でいるんだから。

 でも、やっぱりおやじが亡くなってっから、みんなにね、役場に行けって言われたのよ。志津川の公務員になれって。公務員は嫌でなかったけど、だんだん勉強するのがいやになっちゃって。入ってればよかったかな。

 そうしたら、親父(親戚のおじさん)が大工で、東京に出稼ぎに行くから俺の所に来いって。だから、行くわって。他の職人さんと4人くらいで行ったのかな。その頃東京に行く人は結構いたのね。出稼ぎみたいな感じね。北海道か東京のどっちかだったの。俺が15歳の時で、親父は30過ぎだったと思う。

 結局みんな、大工職人とか、船乗りとか、そういうのになる人が多かったの、昔っから。手に職を持てって言われたのね。食いっぱぐれないから。気仙大工も有名だしな。床屋さんの数も多かったのよ。ライバル店が。それに結局、こっちに勤めっところがないから、仙台とかそっちの方に出て行ったりするのね。

 

東京で大工見習い ―東京はいい所だなと思ったよ―

 志津川小学校と志津川中学校を卒業して、親父と一緒に東京に行って、大工の仕事した。7、8年かな。東京の葛飾の方にいた。いろんな会社歩いたね。新橋の会社とか、押上の会社だの。いろんな会社にその都度所属して。弟子入りね。最初は見習いみたいな感じで、5年間は見習いだ。親父が先生。東京では家を建てたな。新橋の会社では家とか、舞台ある所とかやってたのね。

 大工の世界、厳しいよ。俺の先生は、特に厳しかったね。俺のおじさんなんだけど。短気なのよ。例えば、掃除してるでしょ。ちょこっとごみがかかると、ものが飛んでくるんだもん。俺の後輩のやっぱり志津川のやつも、東京に入ってきたの。そいつね、10日もおらなかったな。仕事の現場からいなくなったのよ。親父と2人で探した探した(笑)。家にいたんだけどね。

 東京はいい所だなと思ったよ。志津川にはないような立派な靴が買えたしさ。今はね、どこ行ってもあるけど。あの時は、弟子は小遣い制だったの。1年目でね、小遣いが1か月1,000円だった。当時としては結構よかった方だよ。別にね、家賃と食費はもたないし、それに、お金もらってもほとんど使わないからな。当時、1杯のラーメンは100円もしなかったね。床屋がね、250円かなんぼだな、安いところで。よく映画館に行ったの。2本とか3本で50円とかだ。娯楽は映画だね。パチンコするわけでねぇし。まだ未成年だから、酒は飲めねぇし。タバコは絶対だめで怒られたもん。2年目で2,000円、3年目で3,000円。

 見習い卒業すると一人前。一人前は給料制でなく日当だから、仕事しないとお金になんない。当時東京で、1日1万円までいかなかったかな。9,000円くらいかな。一人前になると、自分でアパート借りたから、稼いで家賃も払わなきゃねぇし、食べなきゃねぇし。

 道具もね、ちょうど俺が東京に行ったころに電気鉋が出てきたの。電気の鉋とか、鋸とか、ドリルとかね。自分で買わなきゃねぇから。一番最初だけね、親父に電気鉋とかはもらったんだけど、年数使ってると古くなるでしょ。だから、新しいの買ったりしねばならない。全部機械だから、揃えるのも大変よ。でも道具なきゃだめだから。それに、手入れもしなきゃいけねぇし。だけど、それも今回の津波でみんな流されたの。自分の道具。

 



■ 宮城県南三陸町志津川

宮城県南三陸町
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