東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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楽しく仲良く暮らしてきました

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  • 話し手: 平野サワさん
  • 聞き手: 鏑木洋子
  • 聞いた日: 2011年9月24日
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幼いころの思い出

 私は、4人姉妹の三女です。私の両親は、私が生まれた時は、船をやっていだんだそうですが、私が小学校に入ったころ、倒産っていうんだべかね、ダメになりました。親たちは苦労して私たち、おがした(育てた)んです。あまり楽しく暮らしたという思いはないです。

 小学校は、高等科2年まで行って、貧乏だったから、上の学校にも行かなかった。小学校を終えてからは、私のうちには畑もないし田んぼもないから、親戚の畑に行って、草取りしたり、麦刈りしたり、田植えに手伝いに行ったりしました。学校終わったばかりが終戦で、娯楽っても、あんまりないと思ったね。この吉里吉里でも空襲があって、防空壕に入ったり、逃げたりというような生活をしましたよ。小さい子どものある人は、ほんとに大変でしたよ。防空壕で、赤ちゃんが泣いたりなんかすれば、昔のことだからね、飛行機に泣き声が聞こえるから、泣かせては大変だよって、親はほんとに苦労したようです。他にね、槍突きを練習したり、火事の時にバケツで水をかける練習をしたり。今考えてみれば、ほんとにバカくさい。

 

結婚後 ?大切にされて暮らしました?

 昭和28年に結婚しました。親戚にお嫁に行ったの。私を必ずもらいたいって。私、嫌だったけど、行ったんです。だからお姑さんと舅さんに、すごく大切にされたの。みんなに嫁でなく娘のようだねって言われるくらい楽した。

 旦那は、サケマスとかね、そういう船に乗っていたんです。それからサケマスの船をやめて、ワカメとかホタテの養殖をしたんです。

 長女は昭和30年に生まれて、長男は34年、次男は40年に生まれました。子どもを育てるのも、あまり大変だと思わなかった。お祖母さんが、孫が可愛くて面倒をみてくれるから、私は、まず楽。学校の用事があっても、子どもを連れて行ったことはないの。お祖母さんが見てたから。

 私小さい時、あんまりものを言わなくて、大人しいって言われてきたんだけど、子どもを生んでからは、ものを言うようになって、聞かなくなった。だから旦那に、うちさ嫁に来たために聞かなくなったのか、って笑い話になったんだ。例えば、旦那が何か言っても言い返してやったりなんかして。自分でも驚きました。子どもの学校の授業参観日とか何かってあるでしょ。そうすれば、いろいろと皆さんの話を聞いたり、勉強になるでしょ。それで段々。

 

養殖を始めて生活が一変

 昭和50年過ぎにワカメとホタテの養殖を始めました。男の考えでやるから、旦那がどういうきっかけで切り替えたのか、私もわかんないけど、やっぱしね、うちにいて一緒に仕事した方がいいと思ったんだろうね。

  養殖を始めてから、生活は随分変わりました。私の旦那がサケマスの船に乗っている時は、何ヶ月も帰って来ないから、子どもだけみて、楽していたんだけど、仕事切り替えてからは、毎日次から次と仕事があるんだから、慣れるまで大変でした。子どももいるし、朝は早いし。朝5時か6時に起きて、集荷所って、うちからずっと離れた所の船着き場に倉庫を建てて仕事をしました。男の人たちは、朝、2時3時に起きて、ワカメ採りに行くんです。

家族ぐるみでのワカメの収穫風景(大船渡市にて)

男の人たちが持って来たものを、女の人たちは、さばくわけ。茎を切ったり、尻尾を切ったりして、それを今度ボイルにするんです。そのあと塩したりなんかして。芯抜きってね。その時は、自分たち夫婦2人でできないから、よその人たちにお金を払って手伝ってもらって。夕方2時3時まで仕事をして。手伝ってもらう人たちにもご飯支度して食べさせないばわからないから、私が、朝ご飯、それからお昼の仕度をするわけ。

 私の旦那がね、一生懸命働く人だったからね。私は、1から10まで手伝うわけでもなかったの。だから養殖っていっても、「平野さんはほんとにね、楽してえんがね」ってみんなに言われんの。私たちの仕事が気に食わないから、旦那は何でも自分で一生懸命。ホタテを入れるネットの修理とか、私たちしたことないんです。旦那だけして。うちに帰ってからは、私は今度夜のご飯支度をしたり、毎日そういう暮らしでした。

 養殖は、5、6年前に、旦那が体調を崩して、やめてしまったのね。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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