東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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  • 話し手: 堀川義雄さん・啓子さん
  • 聞き手: 山代真希
  • 聞いた日: 2011年11月6日
  • 047,048/101

雄勝生まれの雄勝育ち

 堀川義雄(ほりかわよしお)。昭和3年生まれ。兄弟はぁ7人かな。私は3番目。両親は炭焼きしてたな。炭焼きってあの燃料の炭だな。戦争から帰った後は、私は山仕事をしてた。林業ね。

 堀川啓子(けいこ)と申します。私たち2人ともここの生まれ。もう長いですよ。私は昭和8年のね、三陸津波の年に生まれてるの。3月に津波があって、4月に生まれてるの。だから津波生まれ。29年に(義雄さんと)一緒になって、子供は2人いっけど、1人は石巻、もう1人は施設さ入ってる。体に重度の障害があるからね。

 

昭和の三陸津波

(啓子さん)昭和の三陸津波さ来た時はね、私のうちは雄勝の下の方にあったの。小学校近くでね、もうすっかり流されて。父親もここの生まれだったんで、上の、原地区に上がってきて、間借りして暮らしてね。そのままずぅーっとここで暮らしてる。大変だったの。津波が来るとなんにもなくなるからね。うちは何にもなくなった。そういう話をね、私たちは父親から聞いてたんだけっども。明治の津波の話もね、私のおっぴさん、おっぴさんって私のおばさんね、おっぴさんが話してたのちょこっと聞いたことあんの。けど私たち小さかったからそんなの聞いたってわかんなくて、耳さ入んなかった。今は聞いておけばよかったぁって思うよ。まさかまた津波が来るとはねぇ。

 

東日本大震災当日

(義雄さん、啓子さん)地震の時はね、温泉さ行ってたの。そこに地震来て、もーびっくりしてね。次の日タクシーで帰ってきたの。したらね、もうこっちは雄勝の人は行くことができませんって言われて。で、ビックバンっていう飯野川にある避難所さ避難しろて言われてね。飯野川は大丈夫だったからって。またそこさタクシーで戻って、2泊したの。そこは雄勝の人たち一杯でね。出稼ぎに出ててストップされた人ね、あとうち流された人もいて、色々だったんでない。

 

消えた雄勝の町

(義雄さん、啓子さん)津波終わって3日、4日くらいしてね、ようやく道通れるようになって雄勝の町さ行ってみたら、ほんっとになんっにもないんだもん。胸痛くなるってあれだね。私が生まれた昭和8年の津波から、78年かかって築かったものなの、あの町ね。それがね、すっかりなくなったんだもの。だからいかに大きな津波だかってのがね。川辺とか、山岸とかにゴミがいっぱいついてんの。そこまで水が上がったってことは、よほどの高台が海になったんだって想像したら、ぞっとしました。雄勝はね、ありとあらゆる施設が海辺なのね。だから公民館から、病院から役場から、ありとあらゆるものが波に呑まれて。

 私たちのうちは残ったけど、でもここで生活するのはどうなのかなぁ。髪だって、美容師さんがいないとできねぇっちゃ。いちいち石巻の方さ行かれないもの。やっぱりそういうところがないと。銀行も一応前はあったからね。郵便局、銀行、まぁ庁舎は今、仮庁舎あっけど。復興しないと困んだよね。何にもないってことはこんなにも不自由かと思うよ。

 年取った人たちにはひどいのね。老人の暮らしはひどいです。何にもないからねぇ。だから床屋さんに、車でいちいちここさ来てもらうっていうのが今あるってんだよね。そういうのに1か月に1回とか2か月に1回とか来てもらうとね、助かるんだけどもね。失ってみて初めて有難みね、この小さい町でもどれだけね、その町に潤されてきたかっていうの、初めてなんだかわかったみたい。

 だから何人でもいいから雄勝さ帰ってきてもらいたいと思うんだけど。雄勝の町の安全地帯はここらへんだからね。向こうは海でダメだからね。だからここにね、結構荒れ地とかあるんだけどさ、市でこういうとこ買い上げとかなんとかして、そして…まぁ市営住宅とかなんとか最初建ててもらって、そして雄勝の町さ帰れる人は帰ってきてもらってねぇ。最初そこから出発しなければ復興できないんじゃないかなって思う。

 

地震直後の避難所

(義雄さん、啓子さん)震災後はね、お米はあったの。ここの部落の人たちは、たいてい米は多めに持ってんだね。田んぼやってる人はね、うちのお父さんの実家なんかは30キロの袋3つも4つも避難所さ持っていって出したんでね、玄米をね。薪で玄米炊いて食べたみたいよ。ここは薪が多いから。外でどんどん火焚いてあたったりなんかしてね。釜だのなんだのは昔の家にはあるから、そういうの提供してもらって。あと鍋の大きいの持っていって味噌汁。味噌なんかは、ここの部落の人たちは自分たちで作ってるんです。だからお味噌とお米は大丈夫だったみたいですよ。

 そのうちにほら、救援物資が来たから。あと避難所のところには水あんの。沢のね、飲める水あんの。だからやっぱり助かったんじゃねぇかね。水道は出なくても、ここの避難所は水大丈夫だったみたいですよ。私たちは家空けてたから、3日目か4日目にこのうちさ帰ってきたのかな。けどここの部落の人たちはずいぶん避難所さ、いるもの提供したり、味噌汁作って持っていったり、だいぶお世話したみたい。私たちも避難所行ってみたらね、ほんとに味噌でもなんでもちゃんとあるから。ネギとか野菜もね。お湯さわかして、そいで味噌入れて。ネギを刻んでね、で、ぱっと鍋ん中に入れて、味噌汁にしてね。みんな食べてたの。味噌汁おいしがすってみんな食べてた。確かにおいしかったよ。

 



■ 宮城県石巻市

宮城県石巻
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