東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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日本人は強い

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  • 話し手: 堀川義雄さん・啓子さん
  • 聞き手: 山代真希
  • 聞いた日: 2011年11月6日
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東京大空襲

(義雄さん)私は戦争でね、群馬県の太田さ行ったの。昭和17年の4月。3年間そこの飛行機工場で働いてた。終戦の年に会社が疎開したんで、秋田に行ったんだけっど、その時上野から東京の空襲の跡さ見た。家は1軒もなくなってた…。空襲はB29、10日の爆撃で焼けたんだから、3月だな。日本で一番の焼野原。

 だけどまぁ、当時は結局誰も助けてくれる人ないっちゃ。仮設建ててける人もねし、ほんっとの自分で掘立小屋っていうのから始まって、東京はああなったんだっていうこと。

 今回のこの津波や災害も、あれよりはいんでねっかて私たち言ってんの。今の時代は何日間か食べ物が絶ったの、なんだのって、1日2日3日くらいはね、どうだってできます。車あるから、道路さえ通れば支援物資来て、お腹すかさねぇようにしていただいて。何か月間のうちにちゃんと仮設さ建ててだよ、ほっで今でもたまに救援物資来たりね、いろんな面から援助あるみたいですよ。そのあたりさ考えたら、戦争直後は誰も助けてける人なんてない。

 

戦争後の暮らし

(啓子さん)私は6年生で終戦だけっど、6年生たって今と違って働くこと、食べることをまずしなきゃいけねから。だからほんとにね、じゃがいも、かぼちゃ、さつまいも、おいしくねぇさつまいもね、いっぱい取れるもの、収穫のあるもの作って。開墾してね。当時、どこでもいいから開墾していいことになったの。そして耕したものは自分のものになったの。もうそこの土地さ自分のものになったの。そういう時代がちょこっとあったの。だからね、とんでもないところに自分の土地ができてね。荒れ地になってっとこや、よそのうち、どこでもいいから耕したんだよ。

 そばもね、開墾して取ったりしたね。今はよくそばって食べるけど、私たちそば一番おいしくないと思ってる。結局ね、だしも悪いんだ。だから、なんていうの、すいとんみたいにして食べたって、おいしくないの。今ならこんぶだしとかいろいろあるけど、何にもないんだもん。

 あと、雄勝では終戦直後は海から塩水汲んで、おっきな鉄板だのそういうので窯作って、で、塩水入れて、どんどんどんどん火焚いて煮詰めて塩にして生活の糧にしたの。でもこっちの原地区は海がないから、木を売るのね。ほんでこの人(義雄さん)なんかもずっと山仕事してた。林業。石巻にはほら、パルプの日本製紙あるから。頼まれて木伐ったりして。それで生活してたんだね。

 

昔の生活

(啓子さん)昔はほら、ここの生活っていうのは山仕事だとか、大きい土地いっぱい持ってる人は桑畑作って、養蚕やってたようなんですね。私の家は、昭和の三陸津波の後から来たから土地もそんなにないし、そんなことできなかった。周りの家は養蚕とかそういうのしてたけどね、私たちはお手伝いする方。忙しい時にね。1年に3回か4回くらいやったんじゃねぇ? 養蚕を。ここ部落小さいから、部落の人みんなで一緒にやったべね。

 

雄勝町最盛期 ?スレート?

(義雄さん、啓子さん)雄勝が一番賑やかだったのは、昭和5、6年くらいかなぁ。石山で、スレートがどんどん出てきた時が一番栄えてたんじゃねぇべか。

 雄勝はね、昭和8年の津波でできた町なんだって。昭和の津波で流されて、ほんでまたここさ町作ったんだって。最初は何軒かしか家なかったんだけど、それがどうしてあんなに人がいっぱいになったかって思うとね、雄勝には職場があったわけ。それがあの石山、スレートね、屋根瓦のね。それがどんどん取れたの。東京駅にはここのスレート使われてるんだべ。

 だからその石山の社長さん、こっちでは檀家っていうんだけっど、あげ奉られてね。木村さんていう人だったんだけっど、なかなか学のある人でね。「長屋」っていうのを明神地区に建てたんだけど、今でいう社宅だよ。木村さんのとこで働いてる人を入れてるわけ。私は最初長屋っていうのわかんねくって、学校さ入って遠足行くとき、遠足っつうのは昔は必ず歩くから、明神を通って行ったの。そしたらね、長屋2つも3つもあんの。長屋ってこういうのなんだぁって思ったよ。

 それで、そこ株式会社なんだよね。だから明神で、石山で働いた人はね、ちゃんと厚生年金かかってるんだもん。あれはたまげたよ。当時は厚生年金なんて誰も考えてなかった。かなり優れた人だったのね。自分の金儲けの為だけじゃなくて、働く人のこともちゃんと考えてやってたんだね。だから明神っていうところはそっちこっちから人が集まったんだべね。あそこの部落はいろんな名字があんの。やっぱり働いてた人がそこさ住み着いたからだね。

 

雄勝町最盛期 ?漁業?

(義雄さん、啓子さん)漁業もあった。私たちの同級生はね、卒業したら男の人はだいたい船に乗ったね。ご飯炊きからさせられて。大型船なんだけどさ、雄勝の町と、水浜と、ずいぶん船あったんだよ。それさみんな乗って行って、漁ですね。でも雄勝には市場っつうのないから。だからほら女川とか石巻とか、そういうとこさ売りに行ってね。ほんでも船にも保険ていうのあったんだよね。年金。だから船乗った人は、今この年齢になったら私たちの同級生では一番安定してんの。まぁお金持ちの人は高校さ入って別だけっども、当時はほとんどの人が船さ乗ったの。

 今はあんまり船なくなった。大型船つうの、なくなった。みんな倒産したんだね。今は1軒、1艘だけやってるんです。船持ってるのは7軒くらいあったのがね。

 



■ 宮城県石巻市

宮城県石巻
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