東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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変わっていかないと、みんな幸せじゃなくなっちゃう

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  • 話し手: 末永勘二さん
  • 聞き手: 瀧野芳
  • 聞いた日: 2011年11月6日
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風まかせ社長

 末永勘二(すえながかんじ)です。1950年4月9日生まれの61歳です。家は石巻市の渡波(わたのは)地区で、育った実家も近くにある。牡蠣の生産をしてる養殖漁民の家で、6人兄弟の下から2番目だから、実家は兄貴が継いでる。

 末永海産は自分が独立して作った会社。牡蠣のパック詰めや、牡蠣味噌とか加工品を作っている。子供は4人いて、長男は私の会社で働いて、次男は東京、長女は嫁いでいて、三男は大学生。

 高校は地元の工業高校の機械科出て、その後いろんな職を転々としていたかな。3年間ぐらい東京に行っていたことがあるし、機械加工メーカーから、それから八百屋行って、新聞・牛乳配達、ちらっと飲み屋、土方。あと、商品取引か。だから、結局使われるのは好きじゃねかったんかな。んで、海苔とかワカメとか積んで、自分でライトバンで売りに行く仕事を始めたんだいな。それが独立の始まりだ。

 会社組織にしたのは昭和61年だから設立25年。俺は風まかせっちゅうか、営業で社長になる人もいるし、数字が強くてやってる社長もいるし、社長にもいろいろなタイプがいると思うけど、こんな性格だから、人にやってもらったり、助けてもらっちゃうタイプじゃねんかなと思うよ。

 

幼少期?養殖漁民の生活?

 渡波地区は結構気が荒い人たちが住んでる地区だ。というのも、石巻市に合併する前の旧北上川からこっちは渡波町で漁師の町、牡蠣と海苔の海の町だ。自然自然と漁師の気質になって、それは今も変わんない。やっぱり、潮で仕事してるからかな、満潮の時しなきゃいけねえとか、干潮の時しなくちゃいけねえとか、悠長なこと言ってらんねえんだ。

 だから、兄貴と親父がしゃべっているのをよその人が聞いていると、喧嘩しているようにしか聞こえない。兄貴は、養殖漁民の長男の家業を継ぐ者として「なにが何でも6人兄弟の親分なんだぞ」って育て方をされていたから、高校の時には一丁前の漁師だった。だから、俺らなんかは「服従」だな。そうゆう感覚を持ってた。なんかあれば席順でもなんでもそうだし、自分で酒注いだりしないで誰かが必ず注いでくれたり、先帰る時も誰かが必ず送っていくとか、実家を守る人に対しての接し方を親父から子供の時に躾けられた。

 子供の時はちょうど映画『三丁目の夕日』みたいな時代で、今みたいに隣に誰がいるかわかんないってことはねえな。隣は家族構成は知っているし、それこそ「塩貸してくださーい」「味噌貸してくださーい」っていう時代だったから。

 兄弟とはあんまり遊ばなかったけど、近所の人たちとよく遊んでた。外で遊ぶしかないから、相撲、あるいは陣取りとか道具を使わない遊びかな。でも、ビー玉とパッチ(メンコ)は遊んだな。小学生の時だけとかじゃなくて、ずっとそうだったな。

 遊ぶこともしたけど、仕事が結構あったわけだ。冬は、海苔の仕事を学校行く前にやった。木枠(横19cm×縦21cm)で紙漉きみたいな感じで漉いて、木枠外しして、畳みたいな網の上についた海苔を天日で干すの。それから朝ごはん食った。んで、学校から帰ってきたら乾いた海苔を1枚1枚はがす仕事をしていた。

 年がら年中切れなかった仕事は、種牡蠣を採るための殻っこ刺しの作業がずーっとあった。針のついたトンカチみたいなので道具で穴を開けて、1セット70枚通す。通すひもは針金で、あいだあいだに隙間が空くようビーズみたいのを入れる。そのままになってると種苗つかないから空間作るわけだいな。今はホタテの殻だけど、その頃はホタテを養殖していなかったから、牡蠣殻を使っていた。

 あの当時は機械も何もない手作業だから、子供の数が多いだけ仕事がはかどった。だから、子供たちが一丁前の働き手だった。親父自身もそれを前提にして仕事の量を計っていたと思う。当時はそれが当たり前だったし不思議に思わなかったな。作業は大変じゃねえけども、俺自身は大変だったわな、忍耐力がなくて。

 



■ 宮城県石巻市

宮城県石巻
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