東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

暮らしを語り、想いをつなぐ。

お問い合わせ

変わっていかないと、みんな幸せじゃなくなっちゃう

050-top
  • 話し手: 末永勘二さん
  • 聞き手: 瀧野芳
  • 聞いた日: 2011年11月6日
  • 050/101
ページ:2

親父には敵わない

 最近思うんだけども、誰が親父に似てるかなというと、俺がたぶん一番似てんじゃないんかなと思う。その親父が92歳で死んで「葬式は何とか立派にあげてやろう」って俺たち子供たちは考えるわけさ。でも、あげてやろうって考えること自体が間違いだったし、なにより「すごい生き方した親父だったなぁ」って知ったんだ。弔辞で「末永さんが金を担保してくれて、そして金を借りて海苔をさせてもらった」って話が出てさ、そんなこと初めて知ったんだよね。

 昔の漁師なんちゅうもんは、みんな小規模の経営者で、海苔やったり牡蠣もやったりしていたわけだ。それを親父が漁業組合長の時に海苔は海苔、牡蠣は牡蠣って仕事を分けてしまったのよ。時代の流れでそうせざるを得なかったんだけども。その時、たまたまうちの親父が組合長をやっていて、分けてしまったんだ。規模を大きくして他のところに負けないようにって、強引に進めたんだべ。

 でも、牡蠣はそんなに金がかかんないんだけど、海苔っていうのは機械に金がかかる。海苔を選んだ人の中にはお金がねえ人がいたらしいんだよね。それで親父が、金を担保してやって、海苔やらせてやったみたいなんだわ。組合長は名誉職であるけど、戦いだ。結構、おっかねえくらいの自分の芯をもっていないとやれねんだわ。

 親父と比べてみりゃ、あれも敵わないは、これも敵わない。年取ったけ、わかってきて。積み重ねた人生振り返ってみて、親父がどれだけ人の為にやってたっていうのがわかってきたわけさ。だから、生き方そのものが葬式に表れるっちゅうか「親父が亡くなりましたよと、だからこうしなくちゃいけない」っていうわけではなくて、親父が生きてきたとおりの弔問のお客さんであるとか、献花であるとか。葬式はそういう事だった。

 兄弟の中で一番似ているはずなのに。敵わないな、親父には。

 

震災の日

 ちょうど、新潟に女房と旅行行こうと思ってその準備していた時来たんだ。そんで、地震が終わって、家から歩いて10分くらいの工場行ったんだけど、みんなを帰すのか迷ったんだわ。余震で走っている間に逆にいろんなもの倒れて大丈夫かな、屋根飛んでこないかなとか、ここにいれば何とか大丈夫かな、会社どうすっかな?って。

 そんな風に、俺が迷っている間に1人の社員が「おふくろが家で1人しかいないから帰っていいですか」っていうから、それで踏ん切りついて「みんな帰れ」って言った。

 でも、その時は津波のことなんて頭の片隅にもなかったんだわ。われわれの年代だとね、チリ地震津波を小学生の時に経験しているんだ。チリ地震津波っていうのはものすごい大きい被害だったから、それ以上のものは来ないだろうとわれわれの中にインプットしてるね。だから、どんなに津波警報が出ても、あれ以上のものは来ないだろうと、勝手に決めつけてしまっていて、それで逃げ遅れてしまった。

 まあ、でもそれで、1回家に帰ってきて、うちの人間を避難させて。また、工場戻って戸締りしようと思ったら波が来たんで、水産高校まで逃げた。高校行くまでに、丸太やらパレットやらなんやら丸ごと流れてきて「なるほど、こうゆうのさ当てって死んじゃうんだな」と思ったね。

 翌日からは社員の安否確認に2週間。年末とかに挨拶に自宅に行っていたから、場所は全部わかっていた。でもなかなか行きつかねんだよね。もちろん車は出ねえし、自転車も行けねえし、時間がすごいかかった。結局、あの当時の石巻はどこが道だが全然わからないわけだし。

 

会社の復興状況

 まだ俺が社長だけど、大雑把な方針決めて今は息子が主導権握ってやる。だから、会社には顔出す程度かな。

 震災前は社員が47人いたけど今は3人で復興始めて、徐々に徐々に人増やして戻して行って、今売上は2割程度まで戻った。まだ、方向転換をやりはじめている段階だけど、原材料がねえし、機械がやられてしまったから。

 牡蠣なんか今年1割しか水揚げがされないし、海がよくなって、まず漁師が生活できる基盤がなければ無理だ。がれきがあって、接岸できないでしょ。それに、地盤沈下で揚げれるものも揚げれないでしょ。だから、震災前に戻るには海の方が再開してもらわなあと、我々は海に頼った商売形態だから。それが一番じゃないかな。

 



■ 宮城県石巻市

宮城県石巻
「聞き書き」とは 詳細はこちら 一覧はこちら