東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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イカ釣り人生

漁業の復興を一番に願う

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  • 話し手: 堀合陽太郎さん
  • 聞き手: 辻るり
  • 聞いた日: 2011年9月24日
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奇跡的に残った仏壇と避難所生活が始まった

 息子の嫁の車がね、1台うちの前さ置いてあんの。津波の時、駐車場からちょこっと入って、車は、はぁ、ダメですけど。うちを壊さないで、さぁーと、仏様のあっとこさ入ってあったの。そのために仏さんも流れなかったの。しばらく取らないで置いてあったから、通りを通る人たちはね、「上手に入ったぁね」って(笑)、そうやって見てだったんですよ。でも、おかげで仏さん流れずに(笑)、これ(仏具を1つ)だけ新しく。でも、家は、もう全部壊してもらいましたので、全部ないです。

 3月は避難所にいました。小学校に来て、中学校に来て。そこにしばらく世話になりました。それから抽選があったので、今、仮設住宅にいます。息子が釜石においでって言うけど、長男には孫もいないですからね。娘の孫がここに来るから一緒に遊んでんだ。孫がいると、ちょっと気持ちが。そうでなきゃ。ちょっと狭いですけどね、1人部屋だから。へへへ。1人だから、しかたがないですけど。それでも、ありがたいですよね。生活はできますので。

 

うちは代々漁師だったんだ

 うちは、おやじも、その前のおじいちゃんから、代々、漁師やってたんですよ。

 おやじは船長の免許を取って、八戸から大っきい船をチャーターして、樺太、色丹の辺で、メヌキっていう、赤い鯛のような魚があるんですよ、その延縄漁されてだったんですよ。そんな仕事してたの、何軒もなかったんですね。60tくらいの船をチャーターしてから行ってたんですよ。終戦後は、20tくらいのイカ釣り船を経営をしてたんですよ。栄えてた時はね、20人ぐらい船員が乗って、手分けしてやってたんですけど。だから、子供のときは、それ手伝ってた。吉里吉里の私たちの年代の人たちはね、ほとんど、勉強よりも仕事の方をやってたんですよ、本当に。宿題もなんにもない。はははは。イカ釣りさ行って。だから、ずっとイカ釣りをしてました。

 

昔はイカがいっぱい釣れてたんだ

 イカ釣りって、夕方出ていって、集魚灯って、電気をいっぱいつけて、イカは釣れているんですよ。釣り針、ツノってこの辺で言ってんですけど、針のついたやつで、それで引っかけてあげるの。昔はツノって、牛の角とかそういうんで作ったったべ、ツノって言ってんで。この頃は、プラスチックで作ってあるやつだったんですけどね。餌と間違えて針にかかってくるの。何本も、20本も30本もつけて、長くして巻き上げるの。

 昔は、イカがほんとにいーっぱい釣れてたんですよ。7月から12月頃までね。1月頃にも釣れた頃があったんですよ。

 漁は、7月頃から始まって、この辺で獲れなくなれば、宮城県の女川、あの金華山ある方ね、あと、八戸の方に追いかけるようにして行きましたよ。盛んに獲れる時は、この沖ばりでよかったんですけどね。そっちにほっち歩かなくても。南から北に行って、北から今度は下がってくるんです。八戸あたり、何回も回ってくるんです。みんな苦労したんですよ。でも、やっぱり、漁師をやっていて、漁があった時は嬉しかったですね。イカ釣れた時はね。

 

大漁旗

 漁が終わった後にね、漁が終わりましたよっつんで、「切り上げ振る舞い」って、やったんです。切り上げ、終わりだよって、船員さんたちに振る舞うの。それでお祝いをして。

 多くの船が漁に当たらなかったりすると、よく神主さんに拝んでもらったの。船は港にあってね、神主さんを船まで連れてって、拝んでもらったりして。だから、宮司の藤本さんの、お父さんに世話になりましたよ。

 大漁の時は、大漁旗とか船の両方さ立ててくんの。そういう時は、お祭りの時も違いますよ。盛大になる。お神輿担いで入った時もあったけど。私たちはそん時はほれ、船に乗って、船もこう、いっぱい繋がって、輪を回るんですよ。舟祭りだってね。それで、私たちはほら、船つないだりしてっから、そのお神輿様が波さ入るところ見なかったんですけど、入った時もあったんです。旗をいっぱいつけてね。旗を全部、船に飾って。

 うちの鹿子踊り(ししおどり)とか虎舞とかも、その土地土地で当たった船は、海に下がって。なんぼだ、30もあったんでしょうね。そういう時代もあったんですよ。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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