東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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人生3度目の被災

すばらしい町、志津川に生まれて

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  • 話し手: 勝倉彌司夫さん
  • 聞き手: 山本満
  • 聞いた日: 2011年10月22日
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勝倉家13代目。長男として生まれ

 私は、勝倉彌司夫(かつくらやすお)と言います。昭和8年12月1日生まれ、現在77歳。出身は南三陸町の志津川。生粋の志津川っ子。家族構成は、3年前に家内と母親を亡くしたもんですから、今は長男と長女と3人で住んでます。6人兄弟で、私は長男です。親父はもともと教員で、志津川の小学校の校長、その後は教育長を務めました。祖父は昭和20年に亡くなったんだけど、昭和初期にこの町の町長をやっていました。その頃の町長は無報酬、いわゆる名誉職でした。

 私のうちは、約二百数十年続いてるうちなんですが、私で13代目かな。私は長男だっていうことで、大事にされていました。うちを守んなきゃなんないってことでね。それで何不自由なく生活していました。

 私の入学したのは尋常小学校、その後戦争で国民学校となるんだけど、そこに6年いて、その後に今度は高等科ってのがあって、これが2年かな。戦争で敗れたもんだから新制中学校の3年に編入させられた。学校では、奉仕作業や午前と午後の2部授業などがあった。戦前戦後のひどい時にいわゆる学生生活を味わった。

  戦争のときはみんな戦いに行ってるので、私たちは働き手ですよね。学校から帰ってくると、山に行って杉の葉を拾ったり木を拾ったり。それは焚き木をするため。そういうのをしないと、ガスもないから。電気はあったけど冷蔵庫や電子レンジとかないでしょ。あとは、例えば海が荒れたりすると、海に行ってワカメや昆布などを拾って、ご飯に入れて食べて。生活のために一生懸命でした。終戦直後は誰も遊んでる人はいなかった。そういうのを経験してるから、今でも何があっても生きていく自信はあるね。

 

大学は東京へ。その後、教育者の道へと

 昭和27年に日本大学に進んで、大学は水道橋で住んでいたのは板橋。大学は文学部の社会学科だった。社会学科だから社会科の先生の資格を取ったけども、新聞記者だとかジャーナリストだとか、そういう道にいく人が多かった。当時は親からの仕送りと家庭教師の収入で生活していた。家庭教師をすると結構いいお金をもらって。収入よりもおやつと夕ご飯を食べさせられ、そっちの方がよかったね(笑)。アルバイトをしないとやっていけなかったですね。

 大学を卒業してからは3年くらい出版会社に勤めて、そして長男なので志津川に帰った。おじがやっていたソーセージを作る会社に営業で勤めて、1年くらいかな。その後、町で社会教育指導主事を置かなくちゃなんないってことで、そのためには教員免許を持ってるか、公民館職員の経験を5年以上した人じゃないとダメだった。私は教員の資格を持っていたもんですから、「どうだ、やらないか」って言われて、やったわけです。その社教ってのは、公民館の運営とか、婦人会や青年会とかいろんな団体のお世話をする係なんです。

 結婚は昭和39年にした。37年の10月から教員になって、小原木中学校で社会科の先生になった。それ以来32年6カ月教員を務めました。その間、仙台の鶴が丘中学校、そして志津川小学校、志津川中学校で校長して。そのあと志津川町の教育長を6年務めた。そしてシルバー人材センター、60歳以上の人達が集まって、昔のいろんな知識・技能だとかを社会に還元しましょうって組織で、それの初代の理事長になって、9年前から津波が来るまでずっとやってました。

 

人生で3回の被災。だからこそ言いたいこと

 今度の津波で私は被災3回目なんです。1回目は昭和8年に志津川で大きな火事があってね。私のうちも全部燃えてしまった。35年の5月24日にチリ地震津波で、私のうちも町の中にあったもんですから、床上2メートルくらい津波が来てるんです。そのとき私は教育委員会の職員だったんだけど、町長が「津波で青少年が意気消沈してるから、夏の間だけキャンプ村をやろう」と言って、私は教育委員会から派遣されて、そこの初代村長をやったんですよ。だから、77年生きてる間に火事と津波を3回経験して、今度は全部何もなくなってしまった。そういう人生です(笑)。

 チリ地震なんか、地震なく来た舶来の津波だったわけですから、よく石碑なんかに「地震があったら津波に用心」って書いてあるんだけど、それを「異常引潮、津波の用心」と変えなければなりませんね。

 昨年9月、宮城県主催の「津波シンポジウム」がベイサイドアリーナで開催され、東北大学の今村教授をコーディネーターに、津波体験者の3名の発表があり、私も教育関係者として発表しました。私は数年前から、町や学校からの要請で津波体験のお話をする機会があり、小学生と父兄に「津波の時にはこうやりなさい」など話しています。それが生かされたのかどうかはわかんないんだけど。「僕のうちは高台にあるから津波は大丈夫」って考えがあるわけね。高台にあってうちは大丈夫かもしれない。でも、本人が学校に行く途中だか帰る途中だか、買い物してるか遊んでるか分かんないでしょ。そういう時に来る可能性もあるんですよ。だから地震だとか異常なときにはすぐ高台に上がんなさい、自分の身は自分で守らなきゃならないことを強調しています。そういうことを継承していく必要はあると。

 今度の場合は「想定外」って言葉がよく使われるんだけど、これは本当だと思う。我々の概念では、津波は6メーターくらいだから、2階に上がれば大丈夫って思うでしょ。さらにはその奥で、おれのとこは海から何キロも先で津波は来ないだろうって。でもそこまで行ったでしょ? 自然の脅威だから想像つかないもんね。だから、いろんな固定観念だとかを捨てて、まず高台に上がって自分の身を守れってのが大事だと感じたね。

 



■ 宮城県南三陸町志津川

宮城県南三陸町
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