わたしの居場所

- 話し手: 門崎タツさん
- 聞き手: 古澤杏奈
- 聞いた日: 2011年9月24日
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わたしが小さいときはおはじき、お手玉。あとは、今だったらちゃんと着せ替え人形があるんだけど、お人形も作ってね、中の綿を入れてね、それにお洋服作ったり、あとは着物作ったりでね。着物なんかも作って着せるんです。髪は、ばあちゃんたちの裁縫箱から、糸とか毛糸とか、そんなのをもらったりしてね、作って、遊んで、学校に行って。おはじきとかお手玉は学校でもやりました、休み時間になるとね。で、遅れて入って先生に怒られたり、あはは。けっこうね、楽しい遊びだったんですよねえ。
お裁縫、編み物は大好きでね、やりました、けっこう。子供たちがちっちゃいときも、もう、手作りで作ってね。あとは、いまは孫たちのを。津波で全部道具流されちゃったけど、お店を1軒見つけてね。そっから編み棒とか編み針とか、そんなのも徐々に準備して、身近なところで小さいもの編んだりしてね。ただいるのも、なんかあれだから、そうしています、いま。
あのね、わたしの母親も、わたしたちが学校に入るとき、冬寒くなれば毛糸で編んでくれたり。服も、セーターなんかに襟をつけたりしてね。習いもしないんだけどね、やっぱ昔の人は考えて上手に作って。ズボンも毛糸で編んで履かせたりしてね。やっぱそんな影響あると思います、今考えると。
高校終わってからは、わたしも文化学園っていうところに入って、2年間、洋裁の勉強をしたんです。終わってからね、今度編み物の学校。編み物は1年じゃなかったけども、少しの基礎だけを勉強して。やっぱりねえ、その、何かを作るのが、いい。なんっかねえ、やっぱり好きだったんだねえ。
着物の、お人形さんに着せるのもね、やっぱり、わからないば、そこちょっと縫ってもらったりなんかしてね。今も、毎日ってねえ、まあ…。時間的には、なんぼもやらないんだけどもね、お花を置くところを編んだりして。小さいものしかできないんです、今は毛糸もないから。あとは座イスのカバーを編んだりね、モチーフ編んでからつないだりして。そんなのんだけ、やってます。ただいると、ボケて、なんか…(笑)。
孫たちの持ってきたぬいぐるみのチョッキを、今作ったりしてね。着せとくとね、学校ば帰るとさ、「え! ばあちゃん、今日こんな色の服作ったの?」とかってね。うちからね、「あんたたちのうちから、着てなかったぬいぐるみあったら持ってきてね」って。持ってくるんです、ひとつ。今日はこれに着せててね、とか。 喜んでます、はい。
勤めもね、そういう感じでっては思ったんだけども、やっぱりうちが忙しいので、そっちを手伝わねばね…。悩みましたけどもね、やっぱり勉強だけしたけども、勤めることもなく。
おばあちゃん(門崎さんのお母さん)だけ…。おばあちゃんは、寝たきりではないけどね、元気で。ひとりでご飯も食べるし。座ってね。地震があったとき、そっから避難させて安全だと思ったんです。ちょうど駅の真下がおばあちゃんの実家なんです。そこで避難させたとこの、おばあちゃんの実家の家族もみんな、亡くなった…。それからおばあちゃん避難させたから、わたしら娘も、うちから走ってそこに行って、わたしたちも流されたの、そこで、娘と2人一緒に。だけども、そこでね、5人亡くなって、2人、わたしと娘が助かった。
ようやくね、わたしたちの助けてーっていう声が届いて、ほで、窓からねぇ、「大丈夫ですかー、ここまで来れますかー」って声かけられたので、わたしたち気づいたので。それまではもう、水を飲んだりなんかして、すっかり、まあ、あれして。水が引いてからだから、何時にそこ出たかも分かんないけども…。助けられて上がって、連れてきられたのが堤保育園だった、うん。そこさ連れてこられて、そのときも、もうばあちゃんはだめだ、っていうのはもう、分かっだったかね…。
それから今度は、避難場所が小学校だったから、そこに移されて、着替えをわたしたちに着せて、もうずぶぬれのままで。雪が降ってきてねぇ。ちょうど、そのときは雪降りだったんです。寒くてねえ。電気はないし。そして一晩、堤保育園ってところで、娘と2人、お世話になってね。
で、わたしがケガをしだったんですよ。出るときケガをしたかね、あの、スネ。この足にケガをして。小学校の避難所に看護師さんたちがいるから、じゃあ次の日はそっちに行ったほうがいいですよ、って。歩けますかって言われて、大丈夫、歩けるから、って。そこで孫たちと会ったの、初めて。ほで、お父さんも、わたしたちが助かんないと思ってたからびっくりしてね、わたしたちがいたので。息子も一晩じゅう探したんだって。うん、運よく命は助かって。で、孫たちもそこにいて。