東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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復興への歩み、草木とともに

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  • 話し手: 佐藤節男さん
  • 聞き手: 冨永朋義
  • 聞いた日: 2011年11月17日
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幼少の暮らしが生業の原点?自然とそっちの方さ向いていった?

 佐藤節男(さとうせつお)です。昭和9年生まれの77歳です。喜寿ですね。子どもは男2人に女1人、孫もいます。駅前で総合園芸店やってましたが、津波で流されました。

 生まれたのは、志津川地区の真ん中あたりにある十日町というところです。十日町というのは、そこでお盆や正月の売出しの日、市日を10日に立てたっていうところからですね。5日に立てたところは五日町。女4人、男3人のなかで、私は末っ子。昔とはいえ、多い方ですね。一番上の姉とは12歳くらい離れていたんで、なんていうか、「めんこたまっこ」って状態で育てられましたね。「めんこ」はめんこい、可愛い。「たまっこ」は、珠玉ってこともないんだけど丸い玉っていうかね。「めんこ」と「たまっこ」は、大体つなげて言います。

 小さい頃、体が弱かったんで、中学ではスポーツの方を重点的にやったらどうかっつうことで、野球、バレー、それから陸上競技、卓球もやりましたね。野球はセカンド。陸上は主に短距離でしたが、マラソンも得意でした。学校対抗の体育大会では忙しかったです。でも、それで体の方はすっかり丈夫に。勉強の方も、まあ成績はよかったですね。志津川中学では1学年200人くらいでしたけど、トップだったです。そして志津川高校に進んで。今のように全入っつうことはないですからね、1学年100人くらい。成績は2番。そして宮城県農業短期大学に、今の宮城大学食産業学部だね。そこでは、トップだったな。

 自然とそっちの方さ向いていったんですね。親父は水産加工だったけど、実家には畑があって兄がやってました。大麦、小麦。あと、どんなものあったかな。ほうれん草、キャベツ、その他の菜類ですね。家には中庭もあって、そこでスグリを。スグリって、こう丸い、ブルーベリーってありますね。木いちごの仲間なんです。庭にはほかにもいろんな植物が植えてあって、親父やお袋からいろいろと教えられましたね。例えばトリカブト。綺麗だけども、こいつは根っこから花まで全部毒で、食べたりしたらダメだぞとか。山菜採りに連れていかれたときには、これは食べるのいい山菜だ、これは食べられないってお袋に教わったもんでね。

 

昼夜なく働いた2年間?もう体がガタガタ震えてきて?

 農業短大を卒業した後、定時制の志津川高校の歌津(うたつ)分校で講師をしました。農業と理科の授業を。昼間は女子生徒、夜は7時頃から9時頃まで男子生徒。そして、空いてる時間は、公民館で青年学級っていう、各地区の若い人たちに集会所に集まってもらって、いろいろお話をしたり本を読んだりしてました。土曜日も学校があって、青年学級は日曜もありましたし、部落ごとにあったので。もう、毎日、昼夜忙しくて大変だったです。当時、お袋と親しくしていた方の家に下宿してました。4畳半の部屋に帰って、次の日の授業の下調べしていると、もう体が疲れてガタガタ震えてくるような状態になりましてね。本校の夜の授業が終わって家に帰った時に、お袋がうどんか何か、あったかいやつを出してくれてね。ちょっと涙が出てきました、その時は。

 

教育委員会へ、役場にも出向?なんか起きっと引っ張られてね?

 体が大変なので、講師は2年で辞めました。そしたら、ちょうど教育委員会で職員が辞めたから来てくれないかということで、それで歌津の教育委員会に入って、途中で志津川の教育委員会に移りました。歌津の時に社会教育主事の資格を取ったんですけど、短大出てるんで、62単位以上あると講習受ければ、すぐ社会教育主事になれましたから。それで社会教育の方やって。講師の時と同じように、青年学級だのなんだので、いろいろな地区に出向きましたね。今でいう生涯学習ですか。受講生を募って、いろいろと話し合いをしてました。教科書なんか使ったっつうことはないですけども。子どもの頃から本が好きだったもんだから、こういう本があるよって紹介したりね。志津川に帰ってからは、中央公民館の長もしました。今回の津波で、その公民館は波をかぶって、公民館長も教育長も亡くなってしまって。公民館を建てる時、設計段階から入りましたので、思いが深いんです。

 教育委員会にいた頃、町でチョコチョコ問題があって、何度か役場の方さ回されたんです。出向ですね。例えば、医者が使った器具類なんかが、それは産業廃棄物だから医者が責任持って処理しなくてないんだというようなことを役場が言う。それに対して町の医師会は、なに、町民全体のお世話をしてんだし、そういうのは町の方で責任持って処理してくれたらいいんじゃないかってことで、ちょっと対立した時期があったんですね。その時、私が役場の保健衛生課に移させられてね。で、先生方と話し合って、産業廃棄物だから自分で処理するっていっても大変でしょうから、例えば、注射の針だの金属製のものは金属の容器に入れて筒の方はプラスチックの方にと分別して出していただければ、私の方でも処理しやすいですからって言ったら、先生達も喜んでね。そのように話してもらえばわかるんだと。何でもかんでも産業廃棄物だからって言われると困るんだということですね。

 他にもなんか問題起きっと、そっちの方さ引っ張られて。ほら、当時の役場の職員で、短期大学でも大学出たっていうのは少なかったんです。大学とのつながりだの、こういう問題を解決するのにはいいんでないか、何とかやってくれるんでないかっていう期待があったんだと思いますね。そうやって、役場に移っては問題解決に当たり、終われば教育委員会に戻りという感じで。それで、59歳で辞めたんです。定年まで勤めたらどうかって言われたんだけども、好きな園芸をやりたいからっつうことで。

 



■ 宮城県南三陸町志津川

宮城県南三陸町
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