東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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つながりが多いのが吉里吉里

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  • 話し手: 平原慶子さん
  • 聞き手: 多胡潤哉
  • 聞いた日: 2011年9月23日
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自己紹介―父は吉里吉里一のいい男―

 平原慶子(ひらはらけいこ)です。昭和17年4月29日生まれの69歳。吉里吉里で生まれてずーと。姉が2人と兄が1人、私が一番下。母は私を生んだとき、50歳はいっていましたね。昔はね、歳をとってからの子どもも結構ありますもんね。

 うちの父は明治の生まれ。吉里吉里でもすごく名の通った人でした。平原松右エ門ってすんごくまじめで働き者、家を何軒建てたとか船も何艘つくったとかって自慢話何度も聞かされました。根っこからの漁師で、戦争の時だけ軍人さん。海軍兵のヨット部だったんだって。体格良かったから。母のお母さんが三味線の先生だったそうで、それに父が習いにいって母と大恋愛をしたらしいの。漁は「するめ釣り」。全然ぼけないで90歳まで元気でした。獲った分はね、自分のうちに持ってきて割ってきれいにして干すの。乾いたらそれを整形して、伸ばして、また乾かして。そして10枚20枚に重ねて、それ漁業組合の方に出すんですよ。私たちもちっちゃい時はね、乾かしたのをよそに、するめのばし、何枚でいくらってね、おこづかい稼いだ時もありました。

 私はずーっと、吉里吉里。うちでは親の代から米を結構大きくやっていたの。みんな上の人たちはお嫁にいきました。私が末っ子でしょ。大槌の高校は出たけども就職はしないで、家のお米屋さんの手伝い。役場主催の食生活改善推進委員にも入ったりしました。仕事にはつかえなかったから吉里吉里が離れられないよね。自由販売になってスーパーさんが安売りするから、もうそれほど売れなかったですよ。でもまあ、米って悪くなるもんじゃないからね、やってたったんです、私もね。親戚や友達が買ってくれたり、お使い物するもんですから。

 

昭和8年の津波

 宮城県沖の津波がいつかは来るんだよっというのは頭にあったったんだけども、まさかね、こんなおっきなのが来るとは思わなかったしね。吉里吉里の上の方、私が住んでるところまで来るとも思わなかったしねえ。

 昭和の8年の津波、姉は3歳とか5歳だったかね。ほんとに海が近いところで、聞いた話ではね、2階建ての下が流れて2階がぽたんと落って、そこで生活したんだって。それで今のこっちの流された方の家、県から50坪ずつの分譲された土地を買って、私は2歳くらいで両親と兄妹みんなで引っ越してきたんです。そこが、津波が来ないっていう建前の高いところだから。大姉さんが結婚した後、50年前に流された土地に家を建てて、今回の津波でも流されました。私の記憶だと、何度も大きな地震は知らないけども、その頃の津波の知識はありませんでした。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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