東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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これからも人づくり

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  • 話し手: 渡辺重一さん
  • 聞き手: 橋本拓真
  • 聞いた日: 2011年10月22日
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自己紹介、家族構成

 渡辺重一(わたなべしげかず)といいます。昭和22年9月16日生まれ。満64歳です。6歳のときに親父が亡くなったもんですから、農業高校卒業と同時に農家の担い手でした。息子は2人です。農協とシルバー人材センターの職員です。震災以前は妻と2人で暮らしていました。長男は別にアパートを借りていました。妻と私は同じ志津川町内の生まれです。お家は全壊状態で跡形もないです。土台も、石が置いてある状態だったので、津波ですっと浮かされて、あとはメリメリ、バリバリと壊れ、どーんと流されました。いまは妻と次男と一緒に仮設住宅に住んでます。2DKの仮設住宅です。

 

大震災当日

 私は兼業農家なもんで、震災時はちょうど自宅近くの山の畑にいました。そこで近所のおじさんと立ち話をしていて、午後2時過ぎごろくらいというのを覚えています。宮城県沖地震が来るというのを常に報道で聞いておりましたので、やっぱり来たかと思ったんです。その地震が大きくて、すぐにまた大きな揺れが来ました。部落全体が変な軋む音を立てながら土埃を上げているといった状態でした。これは一大事ということで、2回目の大きな揺れの中を、2人で駆け足で自宅に戻りました。いつもの訓練通りの避難リュックを背負って逃げろ、と妻に言いました。避難場所は近くの小学校を指定していますので、とにかくそこに逃げろということで、自分がいつも乗っている軽乗用車に乗せて逃がしました。その時も今もそうですけれども、私は行政区長をやっていますので、自分の集落の通りの人たちに声をかけて避難させて、避難させながらも私は一番先にその避難所に行って、避難所を開けなければいけませんから、自転車をこいで行って、避難所を開け再度避難してくる人を確認しました。

 そんな中で、車いすの身障者のおばあさんが私の自宅近くにいるんですよ。その方は避難しようとしてもなかなか動けない。防災無線が6mから10m以上の大津波が来ると知らせていたちょうどその時に、そのおばあさん、その旦那さん、嫁さんさ行った長女の方、そして一番末の娘さんの4人がいたんですよ。そして私の5人で「ここにいると危ないから避難しよう」ということで、目の前の道路にその娘さんの軽乗用車を引っ張り出して、そこに押し込めて避難場所の小学校に避難しようという段取りを取ってる最中に、道路の500m位先から津波がどーんと押し寄せてきた。津波を見た瞬間に、ここにいてはだめだ、車ではもう間に合わないと判断したので、すぐ20mくらい離れている山があるんですけれども、その山に沿って登って行けば助かるのではないかというとっさの判断で、車いすを無理無理3人で山のほうに引っ張って行って。で、そこで降ろして急斜面の山を登ろうとした。そういう段取りで身障者の方を車いすから降ろそうとしたときに津波が腰の高さまでもう押し寄せて、メリメリ、バキバキと家が壊される轟音を聞きながら、その5人があっという間に流されてしまった。そして、私以外の4名は生死不明の状態になった。

 私も一緒に流されて、瓦礫の中を泳いで天井を見た。空が見えた瞬間に瓦礫が迫ってくるのが分かったから、それを避けながら泳ぎ、山際から出てる枝にすがったんですけど、でも細くてだめだった。グルンとまわっているうちに、また山から出ている小さな木の株があって、今度はそれにすがった。そうしているうちに津波によって体がぐーっと浮かされて、その山の斜面を這い上がることができた。そして、山の中腹まで上がって行って集落を見たらば、もう瓦礫の海。5月24日にチリ地震津波訓練していた、その想定の高さ以上の波が、どんどんどんどん山の方へ内陸の方に押し寄せて行ってるのを見ながら、恐ろしくも何もなくテレビの画面を見ているような気持ちだった。私は山の中腹以上に登って行って、最初に避難させていた皆が小学校からあそこに避難するだろうなという神社を目掛けて、約1時間山の中を歩きました。そして合流したという状況です。

 



■ 宮城県南三陸町志津川

宮城県南三陸町
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