東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

暮らしを語り、想いをつなぐ。

お問い合わせ

農業、漁業、土木で培った経験で復興を支える

これからも人づくり

063-top
  • 話し手: 渡辺重一さん
  • 聞き手: 橋本拓真
  • 聞いた日: 2011年10月22日
  • 063/101
ページ:2

家族はみんな仕事中だったが無事だったんです

 かあちゃんは私と一緒だったから、私がリュックサック背負わせて避難させたので、ずぶ濡れキズだらけの私に会いびっくりしたけれども、為す術がない。それでも、私は元気な人たちに、隣の行政区に炊き出しをお願いして来いと指示した。その炊き出しがあったのが夜中の11時くらい。避難者が50人以上もいますからおにぎり1人1個というわけにもいかない。私も半分くらいだった。おいしかった。で、その前にかあちゃんには、「ここにいたってなんも助けになんないから、本部があるベイサイドアリーナ(町の総合体育館)に山越えして行って、とにかくおれの肌着とか衣類貰ってこい」と、暗くなった5時半ごろ出発させた。もちろん息子たちは勤めてますから、所在が分かんない状態。

 息子は大丈夫だろうと思いながら、私は自分の行政区長という仕事もしなければならないと思い、翌日の午前中からご遺体の搬出とか不明者捜索に当たっていたんだけれども、今度は寒気が来て、とても駄目だと。ベイサイドに行った妻も全然返事がないんですよ。今考えると当たり前だけれども。行かせた人がさっぱり来ねえから、私が行って指示出すからということで、私と脚力のある元気な方5名を連れてベイサイド目指して山越えしたんです。で、約2時間半くらいかかってベイサイドアリーナに着いた。先に避難していた若い人に遺体の捜索に当たってほしいという指示を出した。その指示を出して、救護班に行ったら、全部脱がせられてパンツまで取り替えさせられて、低体温なので入院しなさいと言われた。で、入院しましたが入院設備なんてあったもんじゃない。いすを並べて「そのいすさ横になってなさい」と。そこで、一息ついたら「息子たちどうなったべ」と心配になったのさ。で、どこさも行けない状態で、右往左往しているかあちゃんがいたわけさ。私が入院しなさいって言われた時点から私と一緒にいるようになった。

 次の日の夕方になったら息子が来た。まぁ生きていたっていう情報はあったんだけども、ようやくその場で確認できたんです。孫も避難させたし、息子の妻も、妻の母親も大丈夫ということで安心した。その次に心配したのは2番目の息子のほうで、どうやっているか見当がつかない。連絡ももちろんつかない。そうやって夜を過ごしていたら夜中の10時ころにひょっこり訪ねてきた。息子は農協マンで、隣の町が勤務地だった。そこも全滅したので、そこから45号線を横切って内陸の山を回ってここに着いたという。で、4人して抱き合って喜びました。最高に安心しましたね。なんにもいらない、これだけでいい、そう思った瞬間でしたね。うん。

 

時代の流れで会社勤めへ

 おじいさんが亡くなって、高校を卒業と同時に家業を継ぐことになったわけだが。3年ぐらいすると、農業と漁業の少ない収入ではどうあがいても生計は苦しいわけなんですよ。耕地面積が普通農家の3倍くらいありましたので、それを1人でやるというのも大変だったわけです。最盛期には、田植えのときと稲刈りのときは常時2人か3人、多いときは5人くらいアルバイトとして雇ったわけですよ。それが高校卒業と同時に農業のほうも近代化ということになってしまって、いろいろな機械が入って、ゆいこ作業というのが段々段々なくなっていって、手伝いに来た人たちも手伝いだけでは飯の食いぶちができない。ということでそういう方たちが率先して会社勤めに走っていったから、なおさら人手がなくなる。そういう状況のなかでどうしよっかなって考えたけれども、まぁ転職はできないけれども、第一種兼業農家のほうがいいんじゃないかなという気持ちも働いて、そっちのほうで働く段取りをしたんです。

 

土建会社の門を叩く

 その間に、高度成長期ですので、一番最初に道路がバイパス的に通って行ったんです。バイパスに面したとこに自分の水田があったんで、ここが適切だということで、水田を埋め立てて町の誘致工場に応じたんです。それが成功しまして、その地代収入と農業の収入、そしてあと漁業の収入とを3本柱にしながら、ちょこっとやったんです。如何せんやっぱりね、細い収入ではとても無理だったということで、親戚のおじさんが勤めている土建会社の戸を叩いてそこに入った。3つを同時にやるのはちょっと無理な話なので、では海を少し休もうということで海を休む。最初は兼業農家の農業を主にして勤め始めたということです。段々に会社のウエイトが大きくなったので、会社を柱にして農業はいつでもできるやと縮小した。そうしてやっているうちに減反政策になって、農業は自家用米生産でいいやということになったわけです。

 



■ 宮城県南三陸町志津川

宮城県南三陸町
「聞き書き」とは 詳細はこちら 一覧はこちら