東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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夢中で駆け抜けた76年

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  • 話し手: 吉田富男さん
  • 聞き手: 浅野奈緒子
  • 聞いた日: 2011年12月10日
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自己紹介

 私はね、吉田富男(よしだとみお)。昭和10年3月23日生まれの76歳。両親は木挽き、木を切る仕事してた。男4人の兄弟で、次男坊。小学校4年生のときに大東亜戦争が始まると、父親が戦争に行ったから、母親が細々と女手1人で男4人育てたんだ。おふくろは10人以上子ども産んだんだけど、生きてるのは4人だけ。戦争の時期は貧しくて、電球は1つで、みんなで同じとこさいた。あの当時米がなくて、母親がかて飯(さつまいもの茎に大根の葉、少しだけお米をいれたご飯)を作って食べさせてくれた。

 昭和25年に中学校卒業して、15歳から弟子に入り、4年間石巻で修行した。昭和35年、結婚して、柳沢部落から小友町(おともちょう)の森崎に婿に入った。子どもはね、4人いるんだ。娘1人に息子が3人。今は大きくなって、長男は昭和36年生まれで仙台の営業所で務めたんだけど、今は東京でコンピューター関係の仕事してる。おらと同じ運命だ。次男も東京で大工してる。昭和47年生まれの末っ子の三男が跡取りで、保育士の妻もらって、地元の市役所に務めてる。孫は2人、長男が小学2年生、長女が5歳。61歳で泣き泣き車の免許を取って、おらが孫の送り迎えするんだ。地震が起きる前は家でばあちゃん(妻)に息子にその妻、孫2人で暮らしてた。

 66歳で退職。元々は木造大工だけど、型枠大工。金になるんで、コンクリート工事をした。平成13年8月まで東京の清瀬市で40数年間1人暮らししながら、働いてた。

 

終戦と校長先生の言葉

 昭和20年8月15日、開墾作業しているうちに、午後の作業がなくなって全生徒が校庭に集まったんだ。檀上にあがって校長先生が「日本は負けた。日本の運命は…。国民の命は…」なんていう内容の話をしてさ、おらも日本も戦争に負けたんだと思った。校長先生のお話が終わった後に、校庭で女の先生が立ったまま、泣くのよ。あれは日本がアメリカに負けたら皆殺しにされるって、そういう噂が立ったんだもん。だから先生も悲しくて大きな声を張り上げて泣いたんだろうな。

 当時、終戦直後は食べ物もないから、お米なんてめったに食べれなくて、お正月だけは白いお米、あんころ餅を食べられたんだ。今みたいに結露が出るような家じゃなくて、茅葺き屋根の家だから寒かった。春には親を手伝うために、農繁休業があったの。黄色くなった麦を刈って、乾燥させた。それから、春先は野山になる桑の実や「しかな」(野菜。生か漬物にして食べる)を採った。秋には柿を串柿(柿の皮を干す。今は糸から吊るすが、当時は串刺し)にして食べた。とにかく食べるものがないから、山の実を食べたもんだ。こっそりその串柿を食べて、母親に怒られた。どこのうちでもきっとそうだった。お店には飴玉も何もなかった。夏に家では、蚊がいっぱいいるから、草を土間で焼いて、蚊を追い出してから、蚊帳の中でみんなで雑魚寝したんだ。時には破れたとこから、プーッと蚊も入ってくる。本当にのどかだったなー。

 

15才―辛い修行

 中学校卒業してすぐに、宮城の佳景山(かけやま)さ行って、師匠さ、叔父のとこさで修行した。冬だって夏だって、朝っぱらから起きて、師匠しか自転車は持っていなかったから、道具箱背負って歩いていくわけよ。朝、仕事してから朝食食べた。それから、昼まで働いて、農家さんに昼間はごちそうになった。夜は手元・足元が見えなくなるまで働いた。今みたいに8時間労働なんてないんだから。当時を思い出すと、昼ごろになって、農家の人が茶碗なんか並べると、早く飯になんねえかなと思っていたもんだ。仕事はできないけど、食うことだけが一人前だった。師匠には年がら年中怒られて、ある時は仕事がのろいと言われて、金槌でターッと叩かれた。周りに見られるのが恥ずかしかった。仕事ができない悔しさで4年間、泣きながら働いていた。だけど休みの日は楽しかったな。300円くらいもらって、兄弟弟子と石巻の映画館に行った。

 ある時、お賽銭箱の組み方は難しいから勉強になると言われた。だから、石巻にある石段が二百何十段もある塩釜神社に行って、お賽銭箱の組み方を見に行った。ただの箱なんだけども、釘も使わないで組んであるからすごいんだよ。ずっと賽銭箱見てるもんだから、今度は巫女さんが怪しがって来て、じっとこっちを見てるんだ。

 



■ 岩手県陸前高田市田束地区

宮城県南三陸町
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