東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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やっぱ、吉里吉里が一番いい

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  • 話し手: 川原弘平さん
  • 聞き手: 牛田貴規
  • 聞いた日: 2011年07月09日
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自己紹介

 名前は川原弘平(かわはらこうへい)。昭和23年11月1日生まれで、今は62歳。岩手県上閉伊郡大槌町の吉里吉里で生まれたんです。

 うちの親どはね、五十集場(いさばや)って水産加工をやってたがために、俺がちっさい時は、親は堤防の外の加工場へ毎日行ってたんだ。毎日海にちらっと行って、風呂に入って、家に帰ってくる。

 高校は、宮古の水産学校に3年入った。それで築地で7年かな、魚を売ってた。それから、今の仕事継ぐためにこっちに帰ってきてだな、そん時に保育園士の嫁さもらって、今の商店の仕事をやるようになった。

 子供は娘が1人に息子が2人、遠野や宮古に住んでる。家族全員無事だったども、津波で家さ流されたから、今は吉里吉里中学校にある仮設さ入っている。

 商店では、ポットとか瀬戸物とか、あとプラスチック製品とか靴とかを売ってたんす。ほんと小さいスーパーみたいな感じ。最初は食料品も売ってたんです。薪やったり炭やったり、練炭とかも。それから、先代の社長がプロパンガスが良いってことで、プロパンガスを始めて、灯油やってお米屋さんをやって。「生活必需品は、川原商店に来れば何でもあります」って感じだった。

 

吉里吉里の過去

 昔は何もやる事ないから近所の子を集めて遊んでさ。今はそういう子供はないんでねえべかな。家ん中でゲームやったりとか、そんなんやってる子供が多いでねえがな。今はもうどこの子供か分からなくなってる。だから自分が子供の頃の方が、一番良かったんでねえかな。今頃になればアワビ取ったり、ウニ取ったりしてた。俺さ小さい頃は、家にいないんだもの。だって早く帰ってくれば、また遊んでこいって言われて、その辺で皆で遊んでんの。結構、上から下までつながりがあって、全部が親戚みたいな付き合いがあったの。

 だから、米が足りないから米貸してとか、味噌足りないから味噌貸してとかしてたな。全部が風呂あるわけじゃないから、やっぱ風呂があるところに風呂もらいにいくの。だから、1軒の家さ行って代わりばんこに、何十人って入るお風呂もあるものね。

 昭和30年頃、オリンピックのあたりだがね、カラーテレビになったとき、吉里吉里にはお寺だけにテレビがあったの。それで、寺の前にテレビ置いてるとね、皆テレビを観に来るの。そやって、お寺さ上がってって、相撲見たり、皆で風呂さ入ったりしてたな。

 

漁業まち吉里吉里

 昭和30年頃は漁業の最盛期でね、役場に勤めるよりもイカ釣りした方がお金になるって言われるよった。役場勤めったって、1ヶ月で1,500円もらう時代だったから。それで役場辞めてイカ釣りした人たちもあるの。そのぐらい海で働いてる人たちは収入があったの。イカ釣りやらをやってれば、1日に2,000円も3,000円も取れた。あの頃は、船に乗ってればいがった。昔は、サンマが獲れれば全部、魚カス、肥料にした。そのくらい取れたんだもの。だから、アワビだのウニってのは、稼ぎというかボーナスみたいな感じなの。11月から1、2月まではアワビ、次はウニ。あとはワカメ。だから、収入源が結構あったんですよ。

 だから吉里吉里にも、イカ釣りの船が20杯ぐらいあったのかな。夕方4時頃に出て、8時から9時頃になれば一旦帰ってくるわけ。船が入ってきて、それを皆で、「浜うけ(浜向け)」ってのをやるの。まあ「浜へ迎えに行く」だ。獲ったイカを持ってきてね、全部裂いて、それを今度は干してスルメにやったわけだ。

 ワカメ取りの時は、学校が休みになって、皆、家のワカメ取りだの手伝った。

 学校さ行く時はね、その辺にスルメを全部干してるわけ、それを2、3枚盗んで行ってから学校さ行ってさ。自分たちも手伝ってるし、親戚もなにも一緒だったから、どこのスルメも取って良いわけ。盗むて言ってもそんなに盗むわけでもないし、いっぱい干してるから、縄に干した2枚か3枚かを盗んでくるわけ。そすっとね、あいだ空ぐから、なくなんないように寄せていった。

 7月になればね、ジャガイモをどこでも、海岸の端で作ってたから、鎌を持って行って、ジャガイモを盗んでいったの。それも自分のところのジャガイモでねえんだよ。何でもいいんだ。その辺にあれば、何積んでいっていい。リンゴが成ってれば、リンゴ盗んで食べたども。ちょこっと頂いてってか。子供のころ、俺はそんな事ばっかやった。ほんとに。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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