東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

暮らしを語り、想いをつなぐ。

お問い合わせ

集落で暮らす

SONY DSC
  • 話し手: 首藤正紀さん
  • 聞き手: 澁澤陽芽
  • 聞いた日: 2011年10月22日
  • 072/101

自己紹介―小さいころ―

 首藤正紀(しゅとうせいき)です。72歳、昭和15年生まれ。生まれたときからずっと志津川に住んでいます。ここで高校だけは出してもらって、あとは農家やって。うちの学校は入谷(いりや)中っていうんだけど、1学年100人ぐらいの学校で高校行くのは5、6人行くか行かないかくらいだったけど。中学校も小学校も山越えして30分くらい歩いて通ってました。

 小さいころは、夏は毎日川に行って遊んでた。ところどころ深みがあるんですよ。そこが夏場の遊び場ですね。1日中そこさ入ってました。岩から飛び降りたり。今はみんなプールに行って、川に入って遊んでる人はいないね。あと、魚捕りね。釣ったりもしたけどほとんど捕まえて。カジカとか。タモは私たちが子どものころはなかったから、ざる持ってって捕まえてました。猫さ、食べさせてました。捕まえて食べるって言ったらアユかウナギぐらいかな。冬場は雪降れば、自分で竹で作ったスキーとかね。竹の節を使って。そりだって自分で作ったんです。コマだって作りました。車作って、急な道路に行って、走って降りて。車輪も手作りで。遊びだって私たちの年代はほとんど手作りで、工夫して、遊びながら作って遊んで。今のお母さんは危ないからって刃物持たせないけど、子どものころから私たちはのこぎりだって斧だってやってました。今みたいに小遣いたくさんあるわけでないし。作るのも楽しみのひとつ。見よう見まねで。大きい子たちがやってるのを真似して。

 

農家のくらし

 長男で、農家だから、生活の基盤の農地があるからここにずっと住もうと思いました。小さいころから長男は残らなきゃいけないって叩き込まれてますし、農業でなんとかやっていけるようになってますし。家は7人家族で、奥さんと息子と嫁さんと孫3人です。兄弟は今の時代では恥ずかしいくらいいます。8人います。私の上に2人いて、私は3番目。妹がいて、一番のしんがりが弟で2男6女です。

 農家は朝早くから夜遅くまで働いて。冬は日が短いから、ゆっくりのんびりできる。夏場はそのかわり、夜が明けて3時半には起きて夕方8時くらいまでやってますよ。夏場は3回か4回シャワー浴びます。7時ごろに朝ごはん食べるときでしょ、10時ぐらいにお茶するときでしょ、お昼でしょ、あと夕方ね。1時から3時ころまでは日中は暑いから昼寝します。やる気があればいくらでもやることはあるから。ただそれに対する見返りが少ないだけで。

 

集落の生活

 車持ってないと困りますね。三陸線(鉄道)は直接恩恵なかったね。車あるし。酪農組合で仙台へ月2、3回行かないといけなくて、仙台で駐車場探しが大変だから電車に乗って行ったこともあるけど、普通はみんな車持ってるから車のほうが多いですよ。年寄りが遠出するときは電車利用したけど。親戚なんか来るなんて言っても途中まで車で迎えに行ったりして。

 区長は行政関係の仕事をしてます。地域のことはなんだってわかりますよ。街の人がどうかはわからないけど、昔からの農村地帯の集落はね。今年は集会所を幼稚園に貸しているのでやらなかったけど、毎年、芋煮会するんです。年寄りも子どももみんな集まって、芋煮して食べる。芋煮会って山形でやってるんですよ。秋の収穫物を汁にして。私の集落では老若男女全員だから、100人くらいの人が寄るんですよ。

 みんな交流が広いからね、都会の人みたいにとなりに誰がいるかわかんないとかはないからさ。私の集落は58戸あるんだけど、小さいころからわかってるからね。人の出入りが少ないから、あそこに誰がいてってね。津波のときも、部落を各班に分けまして、こういうとこにこういう人がいてって名簿を作って全部出したら、高知県から支援に来た保健婦さんが驚いていた。

 部落の方、近辺の方はほとんどわかりますね。みんな同じような農家だからいろいろありますね。長くみんな住んでるから、小さいころからあの人はどこどこのおじさんでってわかります。あのころはみんな歩くか自転車だからね。今は車だからわかんないですよ。まして嫁さんなんて新しくきたってわかんない。どこの家の嫁さんだかはわかるけど。徒歩だったらあいさつもするし、いろいろ声かけて無駄話もするしね。だからどこの誰だかわかるわけ。現代社会は忙しくなって、車も忙しくなって、道路だってすれ違うだけであいさつも大してないし。どこの誰が入ってきて現在何人で生活してるか、避難して入ってきた人、出てった人全部知ってます。津波で仕事できなかったり、家にいるけど親戚の家が大変だからっていく人もいるし、手伝ってくれって言ったらちゃんと寄ってくるんですよ。いちばん助かったのは、となりの町から友だちが2トントラック1台分、精米して食べるようにして米と野菜持ってきてくれたこと。となりの地区までも野菜を配って。うちのほうは津波の終点だから道も通れて。

 うちは酪農やってたんで、大きな機械で通れなくなってた先の道路のがれきをよけたんです。いつ津波が来るかわからないから橋の上に1人見張りを立てて。部落で大きな機械持ってる人とも協力して、45号線と398号線と暗くなってから道路だけつないだんです、こわかったけど。だから家のほうに避難できたわけ。それだけでもずいぶん車もさばけたわけ。

 自主防災って、なんかあったときにやるっていう組織を作っておったんですが、私たちみんな被災してるから、集めようとしても集まらないわけさ。私より若い人たちだと管理職クラスの年代の人たちだから、職場さ行かなきゃいけなかったり、家族がいないって探さなきゃいけなかったりとかして。だから私らがやって。災害になると機能果たさなくなってしまうんですね。支援に行くのはいいけど、自分たちだと組織も何も壊滅してしまう。昔から住みついてる農家の人は幸いにも協力してくれる。生え抜きの地元の人たちなもんで。残ってる人たちは子どものころからずっといる人たち。たまに嫁さんが来るくらいしか変わらない。

 私の嫁さんはとなり村からです。昭和43年かな。私は27歳で、女房は成人式終わったくらいでした。親戚の紹介の見合いで。私のころは見合いやらで結婚して。

 



■ 宮城県南三陸町志津川

宮城県南三陸町
「聞き書き」とは 詳細はこちら 一覧はこちら