東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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集落で暮らす

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  • 話し手: 首藤正紀さん
  • 聞き手: 澁澤陽芽
  • 聞いた日: 2011年10月22日
  • 072/101
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震災そのとき

 地震では影響なかったんです。食器棚も食器も崩れなかったの、不思議なくらい。私はあのとき、高野会館で老人クラブの演芸の発表会やってたんです。その終わりころに、閉会の前置きのお話をしてたとき地震が来たもんで、私も集落の老人クラブの方々と乗り合わせの準備をしていたの。私の車に誰々は乗りなさいよって。天井と天井の電球がぶつかるくらい大きかったから、だーっと階段のほうさ行ったから、パニックにならないように戻して、ドアを開けさせて、「座れ」って言った。駐車場に走って行って、帰ったら誰もまだ下にいなくて。みんなは3階にいて、「動くな」って言われていたので私だけ帰って来たんです。高野会館にいた人たちは400人くらい、屋上で2晩飲まず食わずで缶詰だったみたいです。

 「南三陸町、30分で跡形もなくなっている」と12日の1時ごろラジオのニュースで放送があって。高野会館は陰になって見えなかったんだね。しばらく経って、12日の4時ごろラジオのニュースで「高野会館にも400人くらいいる」って放送があって、ようやく安心して。それから学校に留められた孫たちを迎えに行って。「津波に関係ないとこ歩いて来たから返してください」ってお願いして連れてきたんですよ。山歩いて帰ってきた。

 姉と妹の家が被災して。妹の息子夫婦と娘夫婦と、我が家に避難してきて、26、7人で2カ月ほど我が家で生活しました。お姉さんの家も被災したもんで、炊き出ししてやってました。一輪車で子どもたちが1日に3回運んでました。1回に炊くごはんだけで2升くらい。それを日に3度。2晩くらいは50人くらいいましたよ。農家の昔の家は大きいです。部落の独居老人の方や帰れなくなった人をうちさ連れてきて、親戚の人も連れてきて泊めてやったり。奥さん方は疲れで3日目に具合悪くして、ワゴン車借りて女の人3人岩手県で病院探して、1軒目断わられたけど2軒目で薬もらって注射して帰ってきて。その間は、部落のお母さんたちに声かけて、3人くらいに手伝ってもらって。

 

養蚕・たばこから酪農へ

 今までやってた農家じゃだめだと思って酪農始めたんですよ。初めは田んぼとたばこと養蚕やってて。でも、中国から安い生糸がやってくると日本では養蚕はできなくて。たばこも吸う人がだんだん減ってきたから。生産物は安いです。買う物は高いです。農家からはみんな離れて。働き手がたくさんいるころはよかったんだけど、働き手がいないとできないということで私が酪農始めたんです。今は暇を見て農業している人もいるけど、だいたいは現金収入目当てに働いてる人が多いです。

 搾乳機械も入れたんです。それまでは人手でやっていたんです。私たちが視察に行ったころは研究中で実用化されてなかったけど、実用化されてすぐに買おうと思ったら、日本ではまだ生産されてなかったんです。私は東北で一番最初に搾乳ロボットを採り入れたんです。

 その後、酪農は息子たちに任せて、私たち夫婦はビニールハウスのほうやってたんです。そしたら津波で全滅になっちゃって。私の住宅は高い所にあったから無事ですが、津波の終点近くだからがれきを置いて行かれたんだ。がれきだけ運んで水だけ帰って行ったんだ。9月中頃に撤去はすんだけど、塩抜きしなきゃいけない。耕すとがれきがまだ出てくる。セシウムがどうなるかわからないけれども。まだ種を蒔いたのは私ぐらいで、みんなまだ土地を放棄してる。放棄すると雑草生えたり大変だから、雑草生える前に耕して。私は早め早めでやったつもりなんですが。

 輪菊、キュウリ、キャベツ、白菜、季節の野菜いろいろ作ってました。今までの3分の1もないけれど、やれるならやりたい。畑だってまだ塩害がありまして、キュウリ作ったら、最初の幹は成ったんだけどそれからが育たなくて、収穫も3分の1くらい。トマトは塩に強いっていうからやったけど、なかなか実が成らなくて。でも、麦なんかは強いからいいんではないかなって思うけど。堆肥を普通より余計使ってやってるんだけど、結果は来年の春にならないとわかんないです。残骸を片付けたらまだまだ畑やりたいですね。行政は海の方を一生懸命やってくれてるけど、畑の方はおいてけぼりで。塩害やら何やら時間もかかるし、もっと早くしなきゃいけないんだけどね。

 

ボランティアの方々

 私たちのハウスは10棟、450坪全部やられた。業者にやってもらおうと見積もり出してもらったら、1棟70万80万かかるらしい。私の年齢では農業ではそんなに稼げないから、10棟は建てられない。がれきの中からハウスの骨を探して直して、3棟だけ自力で建てたんです。ボランティアの方の手を借りましてね。そのボランティアの方が家さ、住みついたようになって、その方が友だちを連れてきたりして。ほんとはそういうのだめっていうんだけど。せっかく南三陸町にボランティアさ来てくれているので、最初のうちは自衛隊のお風呂もなくて、ボランティアの方は女の子でも10日くらい入れなかったみたいだから、お風呂開放してあげて。うちは地下水を汲み上げたり、発電機を借りてきたりして、1週間くらいでお風呂ができたから。お風呂入れてあげて、ご飯を食べさせてあげたりして。「泊ってください」って言って一晩に9人泊まったこともあったかな。「食べるものは粗末なものだけですよ」って話して。南三陸町は本来なら海の新鮮なものがおいしいんだけどね。夏場は日が長いから、ボランティアの方が午後4時くらいに帰ってくると手伝ってくれるんですよ。収穫したものを一緒に食べて。米なすとか輪切りにして焼いて食べる。おいしいって「お土産にください」って持ってくんですよ、いつも。

 ボランティアで来てた学生さんたちにうちの孫たちふたり、お盆にお台場さ案内してもらって次の日また送ってきてもらって。孫は中3と小学校4年と5年。みんな男の子。初めての東京見物させてもらって。

 孫たちもボランティアの人たち来るのを待ち望んでて。ボランティアのおかげで復興してるようなもので。ボランティアの方々は自主的に働きに来るって言って来てくれるんで一生懸命働いてくれるんですね。それに報いるために、入れ替わり立ち替わりでたくさんの方々を泊めています。

 

【プロフィール】

話し手:首藤正紀さん

地元で酪農を始め、ビニールハウスで輪菊と野菜などを栽培している。集落では行政区長を務め、自主防災にも力を入れている。町の農業委員や消防団の分団長、宮城県の酪農農業協同組合の代表幹事も務めた。

聞き手:澁澤陽芽

慶應義塾大学環境情報学部2年

 



■ 宮城県南三陸町志津川

宮城県南三陸町
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