東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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工場を再建し、働く場所をつくりたい

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  • 話し手: 田中信博さん
  • 聞き手: 吉野奈保子
  • 聞いた日: 2011年7月30日
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 田中信博(たなかのぶひろ)です。昭和58年9月8日生まれ、今年28歳です。吉里吉里に戻ってきて5年ぐらいになります。今は、父親の水産加工の仕事を手伝っています。お爺さんは漁業組合長。曾爺さんも、みんな漁業関係です。

 

都会の空気は俺に合わないです

 小学校、中学校と吉里吉里で、高校は釜石に通いました。工業高校に行って、初めは半年ぐらいFRP(繊維強化プラスチック)を作る会社に勤めたんですけれども、作業は匂いも凄いし、腰に負担がかかって体調が悪くなって。身体に合わないってことで辞めました。しばらく家の仕事を手伝っていたんですけど、まだ若かったし、親父に「好きなことはねえのか」って言われて。車が好きだから東京の、自動車整備の専門学校に行くことにしました。無事、ディーゼルとガソリン車の国家資格2級を取りまして、横浜の会社に就職したんですけれども、社長と折り合いが悪くてね。社長は雑な仕事のやり方をする人だったから喧嘩して1年9カ月で辞めました。で、こっちに戻ってきて、あとは、ずっと家の仕事を手伝っています。

 同級生たちも、ほとんど都会に出ました。都会に出て、いろんなことやって、仕事を替えてって結構多いです。でも、自分はもう今さら、どっかに行こうという気はないし、都会の空気は俺に合わないですね。

 小学校のときの同級生は40人ぐらいでした。そのうち吉里吉里にいるのは、俺も含めて5人ぐらいかなあ。10人もいないですね。大槌とか釜石あたりにアパート借りて住んでいるとか、近くに勤めてちょこちょこ帰ってきているとか、そんなのも入れると10人ぐらいです。戻っている同級生の大半は女性です。男は少ない。仕事は工場に勤めるとか民間会社の従業員で、漁業関係に携わっているのは、ほとんどいません。

 

うちらの同級生はお祭りの参加率が悪いんですよ

 もともとはお盆が過ぎて、すぐに17、18日が吉里吉里の祭りだったんですが、何の都合かわからないけれども、8月の最終週になりました。同級生はお盆で帰省して、そのままお祭りに行く。だからお祭りを見る人もいっぱいいて面白かったし、自分も鹿子踊り(ししおどり)に参加していたけれども、8月の最終週になったら、やる人だけで見る人はいないし、つまらないから止めちゃった。今、鹿子踊り、俺の同級生はゼロです。

 こっちに戻って、消防団に入らねえかって誘われたこともありますけど、俺はいいって断りました。俺、不器用なんで。消防団に入れば、夜集まって酒飲んだりすることもあるんですけど、でも、その時、火事起きたらどうするのよ、と思う。俺、酒はあまり好きじゃないし、今日は飲むぞっていうときは飲むけど、そんなに飲まなくてもいいかなって。仕事になると仕事第一で、二股かけることができない性分なんです。

 

爺さんが心配で、第2波の後、自宅へ

 うちの加工場は、安渡(あんど)地区の水門の外側にありました。だから、地震のときは、水門の外にいたんです。「ああ、結構揺れたなあ、すごい地震だなあ」と思って外に出たら、地面がぱっくり割れて、水が噴き出した。やべえ、逃げるかって。電気も切れたし、携帯も情報が入らない。唯一入ったのはラジオでした。うちの母親が車でラジオかけて大津波警報を聞きました。で、とりあえず、俺はバスと保冷車を2台、高台に移動して。親父も4トン車を2台、水門の中に移動したんですけれども。もしかすると親父は、あと数分遅かったら死んでいたと思います。

 俺は、親父よりも先に逃げました。家に爺さん一人だったから、俺、見に行くって。自宅は吉里吉里の国道沿いで、すぐ目の前が海です。歩いて5分もしない、そんなところに家はあるし。爺さんは大正11年生まれ。88か、89かなあ、そんな歳なもんで。

 津波が来た時、家には叔母さんがたまたま来ていて、爺さんと2人だったようです。爺さんは「何てことねえ」とか言って、もたもたして逃げようとしなかった。津波が来た時は家の3階まで上がって、身体を持ち上げて、首から上だけ水面から出た状態で助かりました。

 で、俺の方は、結局、家には帰りつかなかったんです。吉里吉里に行くには赤浜をまわるしかなかったんで山越えして抜けたんですけど、そのときにはもう津波が来ていた。高台から「なんだ、これ」って津波を見ていました。1回、津波が来て、凄かったのは第2波でした。それが引いて、また来るかもしれないってときに、まだ、下の方から逃げてくる人がいた。「誰だ。この爺さん、もたもたして」って思ったっけ。とりあえず、その人をおんぶして上まであがって。「まだくっべか、まだくっべか」って思ったけど、とりあえず、第2波が来た後で、家の方に行きました。

 家は、窓ガラスが割れて、鉄骨がいっぱい刺さっていました。爺さんは、もうそのときは、小学校に避難していたみたいですけど、そこらへんにまだ残っている人がいるかもしれないと思って。ひとつ上の先輩の奥さんも津波に流されて…。脚立に毛布をかけたのを担架がわりにして、みんなで担いで上がったんです。結局、駄目だったんですけれども、小学校まで担いで上げました。

 



■ 岩手県大槌町吉里吉里

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里
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