東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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600人の生命がかかってる。

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  • 話し手: 佐藤徳郎さん
  • 聞き手: 福島空
  • 聞いた日: 2011年10月21日
  • 077/101
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全財産は2,000なんぼ

 地震の時も、中田町の花の卸屋さんに仕入れに行ってたのさ。3月11日だから、うちでは3月14?17日あたりがお彼岸の注文が殺到するから、そのためにある程度買っておかなくてなんね。そして、仕入れ終わって、精算し終わったっきゃ、あの地震だったのさ。だからある程度有り金はたいて、精算してくるよね。んだから、おつりが2000なんぼなのさ。津波後は、全財産はそのおつりしかなかったのさ。

 

町の姿がなくなった

 志津川まで戻ろうと思っても、橋が渡れなかったり、三陸道もバーが閉まってたりして。それでぐるっと回って398号線さ来たんだけど、志津川の合同庁舎から500mぐらい上で、交通規制されてて。俺の前にも車が止められてたんだけど、俺の車ハイエースで車高高いから、ちらっと見えたっけ、川から瓦礫流れてくるのが見えたわけさ。ああ、やっぱり津波来たって。そこで、俺は窓開けてクラクション鳴らしながら「津波だから逃げろ!」って叫びながらゆっくり走って、後ろに50?60台連なって。で、自分は家に行こうと、大雄寺に抜けるとこを下がって行ったっけ、またそっちから波来たわけさ。あ、これではダメだと。んで戻ったんだけど、後ろから来た人たちも、こっちもダメだと。そこがたまたま高台の土建屋さんの資材置き場で、そこに50?60台の車を駐めて。そして俺は山道をたどって大雄寺の駐車場まで来て、志津川の町みたら、1軒も残ってない…。町の姿が全然ない。

 

女房は、息子は、

 大雄寺にうちらほ地区の人たち40何人いた。でもそこには女房の姿はなかった、息子の姿もなかったし。それからハウスの方さ下がっていったら、女房はいたった。女房は地震が強かったから近所のじいちゃんばあちゃんとこに様子見に行ってて、息子は地震だったから、水門さ行くって。おらほの消防団は川の警防だったわけさ。だから俺、あの津波を見たとき、息子はダメだなと思った。

 でも最初は心配したけど、大丈夫だなって思ったのは、高台の家1軒残ってるとこさおらほの消防自動車が駐まってたったわけさ。息子は常に運転手だから。たぶんあそこに運転して持ってったのは息子だべなって思った。そして、消防の班長が機転をきかせて、おらいの息子は水門さ行くって言ったけども、「だめだから行ぐな!おっきな津波来る可能性あるから行ぐな!それよりも部落の人たち1人でも多く避難させた方がいい」って。で水門さは行かないで部落の避難誘導に当たってたって。でもやっぱり何人かはダメだったし。おらほで28人ぐらいダメだった。

 おらいの息子ね、避難所にいた時にね、やっぱりトラウマってのがあんだな。夜寝てて女房の腕ひっぱんだってさ。夢見てんだべな。波来てっときに、助けに行くべと思ったやつを、班長が止めたんだって。「おめまで流されっから行くな」って。だからそれを止められてなければ、おらいの息子はダメだったかもしれない。ただ息子にしてみれば、あのばあちゃん助けに行けたったかもしれん、と。

 

とにかく夜が明けんのは長かった…

 津波の晩ね、俺は流されなかったビニールハウスの中で一晩過ごしたわけね。焚き火をしながら。夜もね、一晩、波が来てるわけさ。津波がね。後ろの部落で1軒建物火災があって、その建物の火が、波が来っと海面に映るわけさ。それが高台に避難してた警察車両からは海が見えるから、波引いたとか波来たとかって言われて。波引いたって時は、ハウスん中から出て、まだ5?6m高いとこに家1軒残ってたから、何mでも高い方がいいからって、その高台まで上がるわけさね。こいづ何回も、3回目さなってくっと高齢者はさ、「もういい」って…。「もういいがら、若い人たちだけさ逃げろ」って…。そう言われっとつらいよね。…でね、とにかく夜が明けんのは長かった。

 

みんな、極限を生きてきた

 うちら中瀬町行政区ていうんだけども、俺は区長だから、翌日から自分ところの地区の人たちを探しに各避難所に出かけてった。女房からは娘と地区の人とどっちが先なんだって言われたけど。3月13日も出かけて、でも避難所からちょっと出ただけで交通規制かけられてたから、やむを得ず車駐めて降りてきた。したら、「おとうさーん」て声するわけさ、んで見たっけ、娘だった。山ん中1日半かかって、帰り方わかんないから、いろんな人たちに聞いて、同じ職場の人と2人で帰ってきたった。

 息子は消防団だから、それよりも遅れて1週間後に避難所さ来たったけども。1週間は捜索と遺体の捜索。志津川高校の自転車置き場、屋根だけのところに薪焚いて、コンクリの上に段ボール1枚。毛布1枚も無く。周りなんもねんだよ、屋根だけ。そのなかで消防団6人だか7人が、とにかく捜索しなきゃなんねってことでやってた。重機が1台だけ残ってて、ただ燃料は別なところにあったから。夜中のうちに5km以上ある山道を、ポリ缶2つで運んで。そしてその日のうちに45号線まで重機を持ってきて、まだ波来てる最中、とにかく瓦礫をどけなければなんともならないって。そういう活動を1週間やってきたわけさ。

 みんな、それぞれが、極限を生きてきた。ギリギリのところを生きてくっと、それでいま落ち着いてくると、やっぱ涙腺はゆるむ。

 

チリ地震津波と今回の津波

 まさかね、自分がよ、避難所生活すっとか、仮設の生活すっとか、本当に夢みたい。そういうのは想定はしてないし。俺が小学校3年生の時にチリ地震津波があったよね。その時だって家には津波は来なかったし。やっぱり1つの教訓の中でチリ地震が最大の津波っていうような、そういう印象はあったのさ。そしてうちらほみたく奥の方に来っと、山がせまってくると、どんどんどんどん波が高くなってくるよね。だからうちらほでおそらく海抜20何mぐらいの波の高さになったはず。

 今回、瓦礫撤去に行ってた時、チリ地震当時の写真が見つかったのさ。海の近くに簡易裁判所ってあったのさ、それが本当に海のそばでありながら、古い建物でありながら、建物は残ってたんだ。今回の津波なんかはさ、最後の到達地点まで、家が全然無いよね。だからその波の威力っつのは…。チリの場合はただの水害。海がただ盛り上がって、家は流されないで泥水だけが被っていった状態だと思うのね。一部は家を流された人もいたけども、だいたいは残ったんだ。だから街だってそれなりに、復興するのも早かったし。

 



■ 宮城県南三陸町志津川

宮城県南三陸町
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