東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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お茶っこの会をひらく、志津川唯一のかばん屋さん

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  • 話し手: 菅原幸子さん
  • 聞き手: 澁澤陽芽
  • 聞いた日: 2011年10月22日
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震災そのとき

 兄、姉達も自営業で昆慶金物店をやってたの。主人の姉たち、家族5人この震災で亡くなったの。20歳になる孫がひとり残っただけ。こないだ、形だけでもお葬式をしようということで。骨壷の中には写真か何か入れて。遺品も何もないんだもん。親戚だけでお葬式をして、供養をして。5人の写真を見て、私は泣きました。

 お昼まで死んだ姉と一緒にいて、お向かいのパンとか野菜とかいろんなもの売ってるお店屋さんでお買い物したの。姉はうちに寄って、お店でお茶を飲んで12時に帰ったのよ。お昼食べて、お客さんが来たから「はい」って出てったの。そしたら、話もしないうちにああいう大きい揺れが来たでしょ。ひょっと見たらね、斜め向かいにある洋品屋さんの土蔵の土がね、屋根からだぁーと崩れて落ちたんだよ。それを見てね、「これはただ事ではない」と。それでねお店の帽子だけは値札付いたまま持って、玄関に出たの。扱っていた志津川中学校指定のかばんの商品券を全部かばんに詰めたのね。主人の位牌も入れて、私の通帳とはんこ、それから薬、お店の鍵。息子のジャンバーが玄関にあったからとにかくそれを着て。げた箱も開けるひまなかった。だからそこにあったぼろの靴を履いて逃げたの。

 うちはちょうど十字路だったからね、どっちからも45号線の車が来るわけ。何度も「止めてくれ」と言ってやっとちょっと止まってくれて、無理無理車の間を通って高台に上ったのよ。そしたらすぐ波が来た。すぐうしろ。私、足痛いのも忘れて走った。高台の奥まで。奥には保育所があったから。そこまで走ればいいかなと思ったの。そしたら水がまだ入って来たの。それで、ともかく上に登ろうということで杉山に登ったわけ。登れないんだねぇ。杉はあるし、雑草もあるし、雑木はあるし、道はない。ジャングルのようなところをみんなで登ったの。保育所の人たちも。子どもが「ママー、ママー」って泣くんだよね。可哀そうでね。「あららぁ、なんだべ」と思って私もすぐ後ろを登ってた子どもの手ひっぱってね、「さささ、泣かないで行こな。ばぁばと一緒に行こな」と、とにかく登って行ったのよ。口の中さ何か変なものが入ってぺって出したのよ。ほんだから歯も、下の入れ歯がなくなった(笑)。そして山のずっと上まで登ったらね、道路があったの。そこから200メートルくらいのところに小学校の体育館が見えたの。そこに行きました。その子どもはあとはたぶん先生が連れてったと思うのね。私は子どもが連れて行かれたのもわかんなかった。

 小学校の体育館に入ったのは600人くらい。ストーブも何もないんだ。3月11日。まだ冬。なぜかあの時は雪降ったのね。中に入って寒いけどがんばって椅子を借りてね、どこかのおばちゃんと一晩座ってたの。ストーブも1台だけあったんだけど、灯油じゃなくガソリンで焚くストーブなんだね。車が何台も上がったから、各車から少しずつガソリンを抜いて燃やしたのがたった1台。子どものある人とか、お年寄りとか、足の悪い人とかちょっと身体の弱い人だけがストーブのまわりにいたの。私はちょっと勢いがあるふりして離れて、あったかいんでないかなと思ってよその奥さんと背中と背中を合わせて、私が持ってったマフラーをふたりでかぶって、3日そういうとこで過ごした。電気もない。

 何にも食べてないからぐらんぐらんして、「どなたかね、あめかチョコレート持ってないですか?」って言ったのよ。そしたら、男のかたが「もらってきてやっから」って、探してきてくれたと思うの。チョコレート1個もらった。ここでは死んではたまらないと思った。負けてたまるかーと思って奮い起して、また「もう1個ないかね」って言ったら、「また探してくっから」って。お世話になった。チョコレートやらあめやらもらって。チョコレートもって来てくれたのは会長さんだったの。それで元気になったわけ。

 橋も流されたし、何にも情報が入ってこないのよ。南三陸町いちばん遅かったねんでか。物資も入ってこない。物資運ぶ橋もないし、トラックも通れない。何にも通れないの。飲まず食わずで。入谷婦人会のかたが作ってきてくれたおにぎりを1個もらって、そこで3日間。

 それから、自衛隊の方々がヘリコプターで飛んできたわけ。「あぁ、見に来てくれたんだなぁ」って。次の日あたりに自衛隊のかたが来てくれたの。ヘリコプターで小学校か中学校の庭に下りて、それから炊き出し始まったのよ。それであったかいごはんとお味噌汁をいただいたときには、私泣いたの。本当に泣けてね。ありがたかった。これで「私は助かったんだな」って思ったよ。となりの奥さんとさ、「よかったね」って抱き合って泣いたの。何にもないけどさ、命助かったからなんとかなるだろうと。がんばろうね、と。

 

命があるだけでよかった

 そうしてるうちに、妹がいないの。妹探さなきゃいけないから、高校に行ってみんなに「妹がいないもんだから、探してください」って言ったの。マイクもないから、叫んでもらったの。「お姉さん、いません」って言われた。高校に行っても、中学に行っても。別の避難所のアリーナ(ベイサイドアリーナ)までは足が痛いから行けなくて、誰かに「探してくれ」って頼んだわけ。でも「いないみたいだよ」って。どうしようって思ってるうちに、妹の息子が私を探して小学校まで来てくれたの。「おばちゃん、おばあちゃん(妹)死んだって」って。そのとき私、ぺたーっと座ってしまった。力抜けて。「何で死んだ」って言ったの。

 その日、妹は気仙沼のほうにお線香あげるために行ったの。それで、お昼をごちそうになって、そのときやられた。地理的にもどこに山があるかわからないから、とにかく夢中で走ったと思うの。行きか帰りかわかんないけれども、山の向こうのほうの杉山のふもとで車を見つけたわけ。1週間くらいだったかね。青い車だからすぐわかったのね。「ばあちゃんの車あった。シートベルトして死んでた」って。そう言われたの。そんときも私「なんで行ったか?」って。親戚の人が死んで、お線香あげなきゃいけなかったから行ったって。しょうがないなぁって思った。6人いる兄弟のうち、私のすぐの妹だった。私のお店でイベントがあると、いつも手伝いに来てくれたの。片腕をもがれたような気持ちだったよ。私の生き甲斐だった。火葬して、埋葬しておさめたの。あの津波では助からない。兄弟6人生きてれば本当はいいんだけど。仮設に写真を置いて、お水とお茶をあげて、「なんで死んだ?」って毎日言うの。主人の位牌も持って逃げたから、主人の位牌と妹の写真並べて毎日ね。でも、生きて2人の供養してあげようと心に決めた。

 本当に、命があるだけでよかったなと思ったね。あとなにもいらない。なんとかなると思ったね。主人が私を助けてくれたんだなぁと思って。だから、主人に「ありがとうね。命だけは助かったからね」って。

 



■ 宮城県南三陸町志津川

宮城県南三陸町
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