東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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私の70年の歩み

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  • 話し手: 吉田チヨ子さん
  • 聞き手: 中井咲耶
  • 聞いた日: 2011年12月10日
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自分の生い立ちと家族紹介

 陸前高田の小友町(おともちょう)に住んでる、吉田チヨ子(よしだちよこ)っていうんです。私は昭和14年6月10日、当地の気仙郡小友村で生まれました。昭和30年4月、2町6村が合併して陸前高田市が誕生したんです。兄弟はいなくて、1人っ子なんですよ。私が5歳、母親が30歳の時、父が戦争で終戦の年、シベリアで戦死しました。父の面影はハッキリわかりません。小学校の頃、他家の子供達が盆、正月に土産を買って帰る光景を見て、いいなあと思ったものです。しかし、母は私に不自由な思いをさせたくないと、毎日外に出て男性と同じように働き、生活を支えてきました。

 中学生になり、修学旅行も近づき、母がセーラー服を買ってくれて、毎日その服を着るのを楽しみにしていたら、母が急に高熱を出して床につき、村の医者に入院したので、残念なことに旅行に行けませんでした。母は日頃の無理が続いて過労だったのです。中学校の卒業式にはそのセーラー服を着ることが出来ました。私も8歳の頃から母を助けて、食事の支度から食後の茶碗洗いをしました。

 昭和35年春、4歳上の男性と結婚して、翌36年9月に長男を出産、10年間で3男1女の親となりました。主人は大工で、毎年北海道から東京方面に出稼ぎを続け、盆、正月だけ故郷に帰りました。長男が小学校2年生、次男が5歳、長女が2歳の時、私を育てるため、1人で頑張った母は昭和45年3月、難しい病気で、56歳で他界しました。その2年後の昭和47年5月に三男が生まれました。主人は引き続き出稼ぎを続け、私は4人の子供を育てながら男になり、女になり、田畑の仕事で働き、1人で留守を守りました。

 主人と2人で頑張り、昭和61年には土地を求め、本宅と広間、駐車場を建て、3男1女もそれぞれ家族を持ち、長男は仙台に、次男は東京に、長女は市内に家を持ち、暮らしています。三男が地元の役所に勤めることになり、三男に家を継いでもらい、現在は小学校2年生の男の子と5歳の女の子の2人の孫と、6人家族で生活しています。主人は平成13年8月、40年以上続けた出稼ぎ生活を引退しました。

 

避難所での生活

 平凡で平和な暮らしをしていたその年、平成23年3月11日午後2時46分、強い地震の後、巨大津波が発生して、東の海と西の海からの波が途中で合体して、ものすごく高い波で、高台に避難した私達の目の前で本宅、広間、車が海の方に流されてしまいました。

 夕暮れになり、誰かの軽トラックの荷台に10人くらい乗り、訳のわからないまま着いた所は、オートキャンプ場モビリアでした。倉庫のコンクリートの上にシートが敷かれ、てんやわんやで高台に住んでる皆さんからおにぎり、毛布が届けられ、毛布を引っ張り合いながら横になったが、寒さと強い余震で、眠れぬ一夜を過ごしました。最初の10日間余りは、着の身着のままで下着も取り替えず、電気も水も無い生活が続き、その後高台の皆さんのご好意で、薪ボイラーのお風呂に入らせて頂きました。みんな一緒になって、一家族になって、我慢して暮らしました。有難かったなあって思ってます。

 そして、避難所から離れてもね、みんな家族になったわけです。離れてても、「おい、誰それ、誰それ」って名前もみんな分かるんです。みんな未だうちに来るんです。近所の子供達もみんな集まってくるわけです。みんな兄弟みたいにね、仲良くなってしまったわけです。

 

避難所での炊事班の仕事

 避難所で生活して、私達は10人程で炊事班を結成して、お年寄り達さね、ご飯支度で、ドームハウスまで運ぶんだもの。そこでお年寄り方ね、7、8人ずつ入れられた。部屋の中がすごく暖かくて、豪華に出来てるわけ。それで、私達ご飯運びしなきゃねえんだ。最初ね、車で運ばないで、歩いて運びました。ドームまでお膳こさ入れてね。お昼はパンにしても、朝はおかず作って、おつゆとご飯と、運ぶわけ。

 そして、だんだんと1カ月、2カ月ぐれえかなあ。食事を運ぶ人が少なくなったから、車を頼んで。それからが大変だったんだけんどね。年寄り達、預からねばならねえっつうことで、自分達のことを考えることがもう、頭に無くなってしまったの。朝から晩まで働いた。だから、疲れが取れない。朝5時に起きねばねえんだもの。5時に起きて、私達は炊事班さ行って掃除して。それから、今度は野菜刻まねばねえ。ご飯は自衛隊さんが持ってきてくれるんだ。5時になるとね。おつゆ作らねばなあ、おかず作らねばなあ。そんなことがもう、手いっぱいなの。それが毎日毎日続くわけ。そして、次の日休みだぞって言われても、朝と夜は帰ってきて手伝うの。食べた物を、お茶碗等みんな運んできて、避難所で洗って。今度は全部避難所さまとめて。お椀こも何もまとめて。そして、明日は何しよう、夜は何しようって、献立も考えて。グループで。お母さん達と考えて、作るわけ。それがまず、家族よりも大変だったね。

 



■ 岩手県陸前高田市田束地区

宮城県南三陸町
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