東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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私の70年の歩み

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  • 話し手: 吉田チヨ子さん
  • 聞き手: 中井咲耶
  • 聞いた日: 2011年12月10日
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震災後の苦痛―寝られない病気

 そして、今度は私が、夜寝られない病気になってしまったんだ。病院さ通って睡眠薬もらってきたけんども、半分こずつ飲むんだけど。夜11時、12時頃過ぎたらテレビ見てんの。隣に響くから、低くして見んの。これも、気疲れになります。話も大きな声出されないし。そして、2時なっても寝られない、3時になっても寝られない。明け方になって寝られんだねえ。今度は目が充血してくんの。おかしいけんどね。次の日になって寝れるかと思ったら、そうでもねえの。寝られねえの。夜になると、また寝られねえんかなあと思ってね。それが、寝られにゃ、ストレスの病気になってしまったの。私コレステロールと、ぜん息と、血圧と3つ飲んでんの。そして、下手に風邪引くと、4カ月もせきするからね。発作が起きたりするから。風邪は引かれねえなあと思ってな。それで、この薬もずうっと飲んでるの。

 

思い出の写真

 うちは、写真がいっぱいあったの。私が生まれた時ぐらいに、写真があったもの。私の母親が、随分残してきたのよ。母親がちょっとね、おしゃれな人だったからね。それで、昔うちがね、生活が大変で貧乏だったから、母親が満州の方にね、お手伝いさんにやられたわけ。美容院とか、弁護士さんのうちにお手伝いに行ったんだと。そして家族さ、着る物が無いから、もらった着る物全部ね、うちさ送って寄越したもんです。戦争前にね。そして、母親がうちに帰って来て25歳になってから、私の父親と結婚したんです。おじさんのうちで結婚式して、玄関で撮った写真もあったんだもの。その写真もね、真っ黒いアルバムさね、満州当時の母親の若い頃とかね、びっしり写真が貼られてあったんです。ワンピースとかスカートとかね、そんなのも着た写真もあるの。毛糸の帽子とかもかぶせられたりしてね。写真がいっぱい残ってたの。それが津波で持ってかれてしまったから。一切持ってかれてしまって。それがねえ、もうショックでねえ。

 思い出の写真が津波で持ってかれたもんだから、浦和に行ってるおじさんが思い出の写真を全部送って寄越したわけ。私の母親の弟が、埼玉の浦和にいるの。昔のね、ご先祖様の写真から、私の母親の写真から、おじさんの写真から、子供達の小さい時の写真から。これからはさびしい時、その写真見れるなあと思ってね。すごい楽しみになったの。あと、息子達の結婚式の写真とか、そんなのも寄越したもの。ああ、このぐらい嬉しいことは無いなあと思ってね。そして、「着る服が無いなあ、バスタオルが無いなあ」って私が言うと、「じゃ送ってやるからなあ」って、送って寄越したったね、津波後。あと、「何も困ったことはねえかあ」って言うから、「今のとこは落ち着いてやってっから」って、言ってんの。

 

桜や紅葉の木の思い出

 うちの部落は最高の場所だったんです。そして、下には丁度いい野菜畑があってね。端っこには、12年ぐらい育てたキウイの木があって。毎日キウイがね、食べきれねえぐらいなったの。それも私ね、苗っこから育てたの。

 そして、端から端まで長さが80メーターの石垣もあったの。そして端っこさはね、私の息子がね、小学校1年生さ入る時記念にね、桜の木植えたの。枝垂れ(しだれ)の木とね、ソメイヨシノの桜と。そして今年、3月11日でしょ、津波が。3月頃に八分咲きになってね。真っ赤なつぼみがちょんちょんと出たの。桜の木にね。そして4月、5月は花見がすんの、楽しみだったの。ワーッと花咲くからね。満開に咲くんだったの、うちの前さね。

 そして庭一面にね、花を育ててたったの。そしてね、紅葉の木もね、12色あったの。枝垂れとか、ピラピラっと咲くのとかね。紅葉から何から、様々植えてたったの。そして、サザンカもね、玄関のとこさば何種類あったかな。杯みたいな、きれいなサザンカが咲くの。そして、10月から12月あたりまで咲いてくるわけだ。端から端までサザンカ。間にはね、紅葉がパパっといっぱい咲いてるし。今度は5月にはね、大きなボタンが咲くの。玄関の前さね、銀白のボタンがね、パーっと咲いてね。今でもね、その風景が私の心の中で、見えるの。5月とか6月にはね、あんなボタンが咲いたとか、こんな紅葉が咲いたとか、桜が咲くとかってね。全部思い出が心さ残ってしまったんです。それが、3月の津波で、全部流されてしまった。何1つ根こそぎねえの。桜の木も何もねえの。根っこまで持ってってしまった、みんな。

 

今後への思い

 これからはね、こういう生活が無くなるように、津波の対策から何から国でやってもらって、心配無いような生活したいなあと思ってね。子供達もね、何も心配無いような、育児とか、学校生活とか、教育も受けられるようなね、生活してもらいたいなあと思ってね。より良い陸前高田市を、復興に向けてね、まとめてもらって。元気な生活出来るように、お願いしたいなあと思って。うん。思ってます。私達のような、生活はさせたくないなあと思ってね。

 3カ月余りの避難所生活も終わり、6月下旬から仮設住宅に入り、自立の生活が始まりました。しかし、昭和61年に主人と2人で建てた本宅、広間、車等大切な財産を全て流失しました。けれども、家族6人の命があり、幸せに暮らしているが、最愛の肉親を亡くされ、未だ行方不明になっているご家族の心中を思うと、胸が張り裂けそうです。「がんばれ日本」、「負けるな陸前高田」を合言葉に、強く生きたいと思います。

 

【プロフィール】

話し手:吉田チヨ子さん

昭和14年6月10日、小友町で生まれる。夫が出稼ぎに出ている間、農業をしながら4人の子供を育ててきた。現在は夫と、三男の息子夫婦と孫2人の6人で生活している。

聞き手:中井咲耶

玉川大学文学部比較文化学科4年

 



■ 岩手県陸前高田市田束地区

宮城県南三陸町
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