東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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志津川を語り継ぐ波乱万丈の語り部

「津波ミュージアム」への夢

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  • 話し手: 阿部長記さん
  • 聞き手: 安藤寿康
  • 聞いた日: 2011年10月22日
  • 087/101
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土蔵と養蚕の町

 私が生れて7か月半ぐらいで、志津川の町の中心部が焼けるような大火がありました。昭和12年5月6日ですね。火事で焼け、それから何回も津波があって、そのたびごとに町は総ざらいされますから、町内には文化財とか歴史的な建造物ってのはないんですよ。

 ただその前まではね、志津川町にも土蔵が、私たち覚えている限りで、多い時で20棟から30棟くらいあったんですよ。なぜかっていうと、明治三十何年かな、ちょうどここにお蚕さんからとる生糸の製糸工場があったんです。旭製糸工場といいまして、宮城県では第2番目の株式会社組織で、そこで使われたボイラーはじめ製糸機械のほとんどは当時珍しくアメリカから輸入されていました。製造された生糸は、パリとか、ミラノ、シカゴの万博で常に金賞を取って、それがオクセンシ・キンカサンっていうブランド名で、それをここで作っとったんです。そこに使う繭を、年間通じてあまり湿気や空気の変動のないところに貯蔵しなければならない。それからそれでお金を儲けた方々が、いろんな貴重品を入れといて火からこれを守るんだということで、土蔵がけっこうあったんですよ。それがめぼしい文化財でした。

 

独自の発電 たくましい精神構造

 この町で独自の配電をして電気を町民一般の方々に配電したのが、いまから100年前の明治45年(大正元年)なんです。旭製糸工場の蒸気ボイラーを回した際に残った蒸気でタービン回して発電をして、宮城県でも珍しかったって聞いてます。

 だからそういう先進的なものの考え方と、少々のことにはへこたれないようなたくましい精神構造をもった人が多かったんじゃないんですかね。自分の親父見てて、「いやぁ、明治の人間ってのはすげぇがったなぁ」って、今でも思います。

 

入谷の歴史、砂金と蚕の物語

 以前は志津川町単独でした。志津川町と戸倉村と入谷村とが合併しまして「志津川町」になった。

 今から850年から700年くらい前、奥州藤原氏が全盛時代、入谷(いりや)の山の沢に砂金があった。だからいわゆるゴールドラッシュで、かなり豊かな生活を送ったらしいんです。いまの入谷地区は世帯数が1,200、300だと思うんですが、もうすでにいまから数百年前の藤原時代には、1,000軒以上の世帯があったというふうに言われています。でも、自然の資源っていうのはいつかは枯渇しますんで、それが取れなくなって人々はとたんに苦しみを味わうことになったんですね。それで江戸時代に入りましてから、入谷村の肝いりをやっとった山内甚兵衛さんの息子さんの甚之丞さんという人が、この窮状を見過ごすわけにはいかないから、福島へ行って養蚕の勉強をしてこようと何年間か修業しまして、地域の人たちみんなに教えた。それからというものは、入谷村は養蚕を生計の柱として一大産業に育てたっていうんです。

 数年前亡くなりました私のおふくろの形見の品で、嫁さんに来たとき着てきた、うちの紋が入ってる紋付の着物があるんです。その紋付は、私のおばあちゃんが自分で蚕を育てて繭を取って、その繭から自分で糸を取って、自分で機を織って染め上げた紋付だそうです。

 

林材業の人生

 昭和26年に中学校終わりまして、うちが貧しかったものですから、志津川高校の定時制課程に4年行き、昭和29年から昭和56年まで製材工場に勤めました。結婚したのは29歳です。

 この辺、周囲は山ですから、戦前に植林した杉が育ち、戦後にこの山を伐採して。昭和28年ごろ、製材工場とか材木店とかというのがここに14軒ほどございまして、製材業ってのは一大産業だったんですよ。

 そういうふうに勤めてからも、日の長いときですと仕事に出る前の朝仕事と仕事から帰った夕方、農業手伝って、それから土曜、日曜日とか休日とかには、朝から晩までうちの手伝い。でも働くってことは、全然苦になりませんでした。むしろただいるほうが退屈ですよ。

 製材工場を辞めまして、それで木材の出荷ルートの関係で友達が横浜におりましてね、昭和57年から3年ほど横浜の材木会社でいろいろと販売の仕事をさせてもらってたんです。ですけど、だんだんと国内産の木材が外国産の木材に押されまして、わたしみたいに国内産の木材だけを相手にしてきた人間は、なかなかついていけなくなりましてね。子どもと家内とか両親を置いて単身赴任でいくわけですし、たまたま親父も弱ってきて農作業もむずかしくなってきたから、そこを50歳に退職して、60年に戻ってきました。

 

地元の鉄鋼業に就く

 いまはタカノ鐵工ってところで嘱託みたいになって仕事してるんですが、その前に、その前身を仲間8人で出資しあいながら創業したんですけど、ここは田舎だもんですから、鉄骨加工工場作っても売り先をみつけるのに大変なんですよ。その後つぶれまして、そのつぶれた工場を、わたしも含めて従業員ぬきのままそっくりタカノ企業に引き取ってもらったんです。倒産した際に、親から譲られた田地田畑全部、手放しちまったんですよ。破産する際には、改めてきょうだいにみんなに頭を下げて回りました。

 

自慢できる仕事

 うちの娘が「おとうさんの人生はほんとに波乱万丈で、ベストセラーになる」って言ったことありましてね。

 わたしも長い間、鉄骨加工、鉄骨の建物の建築の仕事をやってきまして、いま子どもが成長した時期に「あれはお父さんが作った」って自慢できるわけですよ。いちばん末っ子の娘が、修学旅行かなんかで仙台へ行って、先生にでかい声で、「お父さんがここの鉄骨作ったんだんだ」というふうに話したそうなんです。そういうことを通してあの子供たちが親の姿を話せるっていうのは、やっぱり親として誇ってもいいのかな、この仕事やって間違いはなかったなって感じを今はしてますけどね。

 



■ 宮城県南三陸町志津川

宮城県南三陸町
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