東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

暮らしを語り、想いをつなぐ。

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お互い助け合ってさ、私はここがいいなぁって。

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  • 話し手: 吉田哲子さん
  • 聞き手: 秋山真衣
  • 聞いた日: 2011年12月10日
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部落の人たちへ

 高田はこの津波でここさ避難しても、私らは幸せだったのよぉ。ここの部落の人たちは、食べ物もちゃんと、夜からもう食べさしてくれたから、おにぎりもらって食べました。有難かったですよ。それで、ここに住んでる人たちもね、みんなで出し合って、救援物資がこない間もね、お腹すいたってことなく、食べさせてもらいました。それから、物資が入るようになってから、お腹すいたってこともないし。私たちは恵まれたと思ってます、ここは。あと、みんなここの部落の人たちだから、知らない人っていないから、あまりさみしい思いはしなかった。そして、事務所で若い人たちがご飯を作ってくれて、みんなで運んでもらったの。年寄りは恵まれました。うちのお母さんたちはね、一生懸命働いてくれたの。流れない家がそっちの方にいっぱいあるのよね。その人たちは、お花がいっぱいあるからお盆に貰いに来てって、あとお風呂もね、ちゃんと自分の家で薪で焚いて、私ら呼んで入れてもらったり、助けられたの。

 若い時は戦争で、もうたくさんなのに、またこういう目に遭って。だって、家が流れるなんて全然。津波警報は今までも何回もあったのよ。だけど、こんなに大きいのは来たことがないから。まぁあんなものかぁくらいでしかないのよ、津波警報って。でもね、私ら命があっただけでもね! だって、ここまで生きてきたんだもの。

 

買って換われない物が、惜しい

 眠れない時あるでしょ、夜ね。そういう時はね、いろんなこと思い出すのね。ああいうのがあったなぁ、こういうのがあったなぁ、あれもみんな、流れたんだなぁって。私はね、立派な着物も、宝石も、ネックレスも、もう諦められるのね。また買えば買える物でしょ。一番残念なのは、私いつもおじいさんと言ってるんだけどね、息子と娘がね、大学へ行ってる頃手紙をくれるでしょ、そういうのね、とってたのずっと。それでね、ときどき眺めてね、こういうことあったなぁ、あぁいう時もあったなぁと思って楽しんでた。今度孫が生まれたでしょ。その孫がね、幼稚園の時間、敬老の日にね、ばあちゃんの絵を描いてくれた。私楽しみに畑を作ってたから、苺を作って孫たちに送ってたのね。それで、「おばあちゃんいつも苺やなんかいっぱい送っていただいてありがとう」って。私の似顔絵描いて大きいのに描いてくれたから、私それ大事にして、「これは宝だ!」ってしまってね。それ流したのが、宝石よりも、惜しかったぁと思ってね。息子が大学に行ってる時よこした手紙なんかも、とってあったのね、その手紙も流しちゃったなぁって思ったりしてね。着物も何もいいよ、流れても。でもねぇ、その買って換われないそういう物が、惜しかったなぁと思う。

 

本当に有難い。私はここがいい。

 でもねぇ、ほんっとうに有難いねぇ、全国のみなさんからさ、励ましの言葉から物心両方(をもらって)、有難いと思った。今までねぇ、阪神淡路だの新潟の地震だのって、なんか他人事みたいに考えてたけどさ。我々は実際こうして避難民になったと思うと、考えられなかったね。本当に助けられた、私たちは。この部落の人たちにね、本当に世話になったの。ここの仮設に入ってここの若い人たち、お母さんたちは、流れても畑なんかはあるから、車で通って畑作ってる。だからね、今寒くなったけども、私がこの辺うろうろしてるとね、みんな帰ってきて、「あ、ピーマンあげるー」って。で、もらう。だからもう本当に有難い。みんな同じ部落にいたから、「おう!」って。うち誰も畑作ってる人いないから、みなさん持ってくるんですよねー。

 ほんっとに有難いの。何かあればね、お互い助け合ってさ。

 だからね、知らないとこへ行きたくないのよ。土地買ってどっかへ行くかーって話もあったけど、私はここがいいなぁって。

 

【プロフィール】

話し手:吉田哲子さん

昭和2年に大船渡市の末崎町で生まれた。若い頃は戦争一色で、青春時代というものはなかった。その後は郵便局員を経て、退職後は少し畑をやりつつ、70歳までお舅さんの嫁の役目を務めた。

聞き手:秋山真衣

玉川大学文学部比較文化学科3年

 



■ 岩手県陸前高田市田束地区

宮城県南三陸町
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