東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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この町をちゃんと残さないとね

孫たちに語り継げる町

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  • 話し手: 阿部禎介さん
  • 聞き手: 山本愛
  • 聞いた日: 2011年10月22日
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自己紹介

 阿部禎介(あべていすけ)、生年月日は昭和13年2月2日生まれ、73歳です。私と家内と92歳の母親と3人暮らしです。今は仮設のほうで3人で暮らしています。私と家内は息子と娘の多賀城にいたんだけどね、仙台のほうに二次避難して。母親は私の弟のいる大崎市にある温泉場の、避難所にしてもらった施設に行きました。で、8月の末から3人合流して仮設に入ってきました。震災が起きる前も3人で暮らしていました。

 今は一応、民生児童委員をやっております。もう4年目ですね。震災前は南三陸町の志津川、旧清水小学校のすぐ近くに自宅がありました。海から約1kmですね。海岸線からほぼ平坦地なので。民家が立て込んでいたので海は見えなかったんだけども、今は何にもなくなったんで、すぐに海が見えます。

 

南三陸町で過ごした青年期 ―海、山、畑、そういう時代だったの―

 今現在は統合されて学校もなくなったけれど、小規模校だったんで、全校生徒で43人しかいなかったのね。

 ところが我々のころは、自分の同級生だけでも1クラスで47名くらいいたの。だから教室、机で後ろまでいっぱいだったんだよ。あのころはみんな兄弟が多かったんだよね。だって12人、1ダースの兄弟がざらにいたんだよ。兄弟6人は普通、1人なんて記憶にないね。

 当時は中卒ですぐ、家庭を助けるために船に乗った仲間もいれば、私の場合は鹿島建設に出稼ぎだね。会社から派遣されてきて、そういう世話する人がいたのね。そういう人がね、1日いくらだけどこういうところがあるから行かないかって。でもたいていの人は、18歳になるまでは家の手伝いしてたね。農家が多かったから。そうだね、本当あのころは高校に進学できない人が多かったね。

 青年学級ていう、たとえば小学校の先生たちが、その夜生徒が下校した後に週に1回くらい、進学できなかった我々のために勉強を教えてくれたの。南三陸町、旧志津川町ではそういう組織がほうぼうにあったの。で、それぞれ交流会をやってね、あれがまた楽しくてね。もう本とかそういうものに飢えてたからね。ただ、みんな集まってわいわい騒ぐだけなんだけど。でも、ちゃんとそろばん教えてもらったりね。

 それ以外はうちの仕事をしてたね。漁業やってる仲間は、みんな家業の手伝いなんだ。海出たり、山行ったり、畑耕したり、そういう時代だったの。あとは、食べ物だけは農家やってたからあったんだけどね。もういつも小遣いとかには不自由してた。山行ってね、自分で薪を切って、それを買いに来る業者屋さんがいるのね。2mとか1m くらいかな、それを木で囲ってロープ張ってそれにいっぱい薪重ねて、それを置けば、業者さんが買いに来てくれる。微々たるお金なんだけどね、それを小遣いにして仲間との付き合いに使ったり、たまにみんなで誘い合って映画観に行ったりしたね。映画は片道1時間くらいだけども、志津川にあったの。やっぱり月に1回くらいね、なんか面白そうなのみんなで誘い合って、男女も夜道ワイワイしゃべりながら。同級生、先輩とかね、多いときは20人くらいでね。ご飯とか、買い食い、そんなものはできなかった。だから映画観てだべって歩く。映画は楽しみだったね。今は映画なんて忘れたわ。テレビとかDVD見られっからね。

 

出稼ぎ ―常にうちのことは案じてたね、長男だし―

 18過ぎてから2年くらいかなぁ、出稼ぎして、うちにも仕送りして。20歳くらいまでかなぁ。その頃、もう反抗期になってきて、親父っていうのは軍人あがりで、それから過去に役場の職員もしてた。その親父が厳しくって、反発して、とにかく出ようと思って。「こんな生活はもう先の見通しが暗いしね、百姓はやだ」って思って出稼ぎに出た。だからかれこれ7年くらいうちに帰って来なかったね。

 最初は千葉県の海岸地帯だなぁ、あそこの定置網に応募して、岩手県の仲間と一緒に行った。それでね、そこで数ヵ月過ごしたの。その後は、今度は叔母のつてを頼って、横浜に出たの。いとこもいたし、なんか俺にできる仕事ないかなって言ったら、ちょうど義理の叔父さんって方がちょうど三菱系の会社にいたのね。そしたら、「俺んとこに来てみるか」っていうから、一応面接受けて、そこでいろんな技術を習得して。もう夜学にも通わせられたのね。我々みたいのに夜学教えるところがあってね。初めはまじめに通ってたんだけどね。そこ3年通えば、一応定時制高校みたいに、そういう資格がもらえたのね。だから何とかずるして休んだり、休みは多かったけど、一応資格だけはもらったの。

 そうしている間も、常にうちのことは案じてたね。長男だし。弟や妹はどうしてっかなーって。一番下の妹は私と17歳年が違うの。俺がうちいなくなったころに、また一番下の末っ子が生まれてんの。それで6人目。3歳くらいか、いくらくらいだろうな。5、6歳になってたのかな。一回家帰ったらよその人だと思ってね。「あの人いつまで泊まってるの」って、よその人だと思ってね、自分の兄貴なのに。今も時々笑い話で言うんだけど、そんなことがあったの。

 横浜にまだいられたんだけど、仕事中に怪我したんだよね。怪我して、しばらく入院している間に、いろいろ自分も考えたんだけど。親父がいとこのおじさんを頼んで迎えに来たの。うちに連れ戻してくれって。それで、やっぱりうちも恋しくなってきたから、親父の言うこと聞いて帰ってきたの。

 



■ 宮城県南三陸町志津川

宮城県南三陸町
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