東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

暮らしを語り、想いをつなぐ。

お問い合わせ

苦労、また苦労、でも生きて頑張んなくてはと思って

SONY DSC
  • 話し手: 吉田アヤ子さん
  • 聞き手: 猪股明希
  • 聞いた日: 2011年12月11日
  • 094/101

小説が書ける私の話

 私は吉田アヤ子(よしだあやこ)。実家は石巻の矢本っていうとこ。石巻には兄弟がいるのね。生まれは昭和11年3月15日、今77歳だよ。今は孫と仮設に2人暮らししてるの。

 私の旦那さまね、62歳で亡くなったの。あれから20年くらいになるもの。自分で選んで嫁さ行った人だから良い人だったよ、ほんとに優しくてね。日産農林とか大船渡安定所(市役所)とかで勤めてたね。私の娘、息子たちはね、みんな遠くにいるの。私の娘は今40なんぼで、和歌山さ嫁に行ってる。息子が2人いるんだけども、次男は青森の弘前でお婿さんに行ったの。あと50何歳の長男が茨城に出稼ぎに何十年と行ってんの。津波ん時ドームのとこに泊まったりして、津波上がりの家を片付けたり手伝ったのね。今の仮設に電話は引いてあるけど、節約のために使わねことにしてる。子どもたちはそれを分かってるんだ。だから私は手紙来んの待ってるの。

 あと孫が3人いんの。今私と住んでる孫はね、長男の息子で学っていうの。その孫がね、ばあちゃん、ばあちゃんて離れないの。ほんとに私、大事にされるよ。この子のお母さんが年子にお産したから、学は私が抱いたり、寝せたり、おむつとっかえたりしたの。なんぼも離れないから私が育てたの。この子の部活が野球だったからねぇ、スパイクっていうのかな、靴も何もね、裏も泥が刺さったりしたよ。一足しかねえんだもの、大変だったよ。それでも年金もらったりすると新しいの買ってあげたりしてね。でも反抗期なんてもなかったし良い子だよ。まあ、反抗期があったらお母さんとこさぶんだくってやるけどね。4年生からずーっと育てて23歳さなったんだもんね。

 私は小さいころから苦労したんだよ。私の話聞くとみんな泣いてしまうんだもの。小説書けんだよ、ほんとにね。私は小さい時北海道にいたの。父親が大工だからね、弟子いっぱい連れて北海道さ行ってたの。私のお父さんはね、元々、陸前高田の廣田(ひろた)の長洞(ながほら)ってとこの人なの。おふくろは宮城県の人だけど、むこうさ落ち着いたんだよね、家も建てたから。

 私が3人姉妹の長女なんだけど、私がまだ8歳ん時、一番下のちいちゃいのが生まれて母親が亡くなったの。だから父親が実家の廣田さ来たの。それで私、おばあさんおじいさんに育てられたのね。厳しいじいちゃんばあちゃんでね。おじいさんも腕のいい人だから大工さんいっぱい使ってたよ。

 お父さんは私が6年生のとき宮城県の女川から後のお母さんもらったの。そしたあと宮城県さお父さんと一緒に行って、矢本さ家を立てた。そのあと私、中学3年に石巻の中学校卒業したの。そんで定時制に行くべと思ってたけっとも、お金がかかるから継母に追い出されてね。だから友達のとこさ一晩泊って、お金を借りてね、そして廣田の長洞のじいさんばあさんのとこさ逃げて来たの。じいさんばあさんとこさは1ヵ月くらいいたかなあ。そのあと高田一大きな大きな呉服店さ奉公に来たの、女中だべな。そこさ3、4年いたかなあ。女中さんだもの、学校さも行かないよ。そこさ住みっぱなし、それに行くとこないもの。そしたら呉服店にじいさんが迎えに来てね、今度は小友町(おともちょう)の森崎ってとこさ、女中としてよこされたの。子守してたのね。そしたらね、私が23歳の時かな、6歳違う後の私の旦那さまになる人と縁があって、お互い好きになってね、同じ森崎ってとこにお嫁さんにもらえたの。こんな話してっとほんと顔赤くなっちまう。その頃おら、めんこかったんだよ、ぽちゃぽちゃーっとしてね。でも苦労ばっかだからね。結婚して女中やめてからもね、お姑さんの世話せんなんねから一生懸命勤めたんだもの。

 



■ 岩手県陸前高田市田束地区

宮城県南三陸町
「聞き書き」とは 詳細はこちら 一覧はこちら