東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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志津川で一番古い旅館の世話好き女将

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  • 話し手: 阿部節子さん
  • 聞き手: 安藤寿康
  • 聞いた日: 2011年10月22日
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150年続いた旅館の女将として

 阿部節子(あべせつこ)です。昭和18年3月3日、ひな祭り生まれの68歳です。4人兄弟の3番目で、上が姉、兄、あと私、妹。2つずつ違います。

 父は町会議員を2期やって、母親と兄貴がうちで食堂をやってました。父親が病気になって、8年間母が介護してました。父親が昭和62年に78で、母親が平成8年に77で私と同じに心臓が悪くて心臓弁膜症で亡くなりました。兄は肝臓がんでもう8年くらい前亡くなっちゃった。姉はうちの実家の近くにいます。妹は平成元年に42歳で交通事故で亡くなったの。

 仕事はお父さん(夫)と娘とあたしと3人で、五日町の八幡川のすぐそばで阿部旅館っていう旅館をしてたんです。昔は阿部屋っていってね、江戸末期、明治2年からもう150年くらい続いて、うちのお父さんで6代です。子どもは女の子2人です。上の子が47ですね。結婚しないでうちにいて、旅館の家業やってます。下が4つ違いだから43。仙台の方へ勤めてます。

 去年の1月まで、おばあちゃんを8年間介護しながら暮らしてきました。3年くらい前からは目が見えなくなって、去年の1月8日に95歳で亡くなって、丸1年過ぎてからこの震災に遭ったんですね。うん、今考えると、まずそういう人連れて逃げるってことはなかなか難しかったです。

  

樺太から引き揚げて瀬峰で育った

 私は昭和23年に5歳のとき樺太から引き揚げてきたんです。昔は樺太っていっても日本の領土で、父親が営林署関係で向こうへ行ってた。本籍は知床になってますね。覚えてるのは、一番最初は飛行機がぶんぶん飛んでたのとか、雪の中を銭湯に行って窓に真っ白く雪があるっていうことです。あと引き揚げるとき、船の中で酔った覚えがあります。あと子どもの頃、馬車に轢かれました。母親に、あれは夢だったのかって聞いたら、馬車に轢かれたんだって言ってました。そういう4つかそこらの記憶があるの。夢みたくね…。

 そして栗原郡瀬峰で育ったんです。ふつうの小学校、中学校でしたね。そこで暮らしてたんです。

  

知り合いの仲人で旅館に嫁ぐ

 私は21歳で嫁になって来たんです。お見合い結婚です。知り合いのお仲人さんっていうのは、この間亡くなったおばあちゃんの知り合いで、おばあちゃんとおじいちゃんを仲人して、そして2代続けて子どもにも仲人してくれたんですよ。うちのおばあちゃんの近くの人だからね。農家はやりたいとは思わなかったです。やっぱりお客さんを見て暮らしてきてたから、抵抗なく旅館に入りました。

 お父さんは割と優しい、あんまり荒い人でないです。人の話もよく聞いて。お客さんとの接客もちゃんとする人。お客さん相手するのは、うちではお父さんです。

  

世話好きの両親を見て育ったから

 結婚当時は仕事が慣れないからね。生活様式が違ったりするから、うちに慣れるってことは大変だったね。私の実家は、父親が引き揚げてから役場職員だったもんで、瀬峰の病院で事務長をしていました。うちも病院のすぐ下のところにあった。当時は、病院ってのは今みたく給食とかなくて、患者さんが付き添いでついてて、自分で七輪でごはん炊いて食べたりしてたもんでね。だから何か雑貨屋さんはないかっていうことで、雑貨屋をやって、そのうちに食堂やって、そして私も高校卒業してからうちの手伝いしてね。

 うちの父も母も、人のためって、困っている人を見てられない方だから手助けするの。それを見て育っているから、お世話好きなんだよね。父も病院に勤めていて、いろいろ患者さんの悩みなんかを聞いてたりしていた人だからね。だから、割と人の世話する方だったよね。当時は完全看護でないもんだから、病院に付き添いに来た人を呼んでお風呂に入れたりね、子どもたちいれば送ってあげたり子守して手伝ったり、手助けしたりしてたから、そういうの見て私らも暮らしてきたから、それは当たり前だったね。だから、人の世話っていうのは、仕事にもやっぱり通じてますよ。おせっかいな所もあるもんだ。

  

仕事は苦にならないね

 だから、様式は違うけど、旅館に入ってもお客さんに料理作って出すってのはあんまり苦になんないのね。旅館の仕事の大変さっていうのは、いま、あんまり感じないんだよねぇ。こんな性格だから、人とお話しするのは苦にならないんですよ。畳の上の仕事だから、布団敷いたなんだって、そういうのは大変ですけどね、あと日常的なことでは、そんなに大変っていうことはないね。

 料理はうちのお父さんとか、嫁に来たあたりは元気だったからおばあちゃんがやったりね。そのころお舅さんのまた上の「おっびさん」もいたしね、娘が来るようになってから、献立とか考えるのは娘が今ほとんどやってました。娘は高校を卒業して、調理師学校に1年行って、それから仙台の奥座敷の秋保(あきう)のホテルニュー水戸屋に入って、接客の方じゃなくて、調理場の方に3年間働いて、あとうちへ入った。

 部屋数として、一応お客さんの泊まるとこは10部屋。その他にお風呂とかいろいろこまい部屋はありましたけどね。お掃除とかはみんなで分担で仕事するんです。うちでは、お父さんがお客さんのことは全部やる。私が洗濯、娘はお料理を作ったりお風呂洗ったりと分担して、夕方までやればいいから気楽にやれたんですね。

  



■ 宮城県南三陸町志津川

宮城県南三陸町
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