東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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志津川で一番古い旅館の世話好き女将

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  • 話し手: 阿部節子さん
  • 聞き手: 安藤寿康
  • 聞いた日: 2011年10月22日
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お客さんとのふれあい

 夏とかお客さんが大勢で忙しい時は、アルバイトを雇ってたんです。忙しいのは夏ですね。祭りの辺りとかね。あと土日になると釣りの人たちも来てましたね。うちでは割と毎月、定期的に来る常連さんが多いんです。それから冬は冬で、お客さん来ないってわけでなくて、定期的にお客さんが毎月、お店とか仕事に来ます。

 長いお休みを取れる時ってないですね。お客さんないから明日出かけようねっと時に限って、お客さんやお得意さんが来たりしてね。みんなで閉めてっていうのは、あんまりないね。

 やっぱりお客さんが、ずっと長く来てるとね、体悪くしたとか、亡くなったとか、体悪いけどどうしてきたとか、気持ち的にどうしてるかなって感じはするね。長く泊まってると、私らもやっぱりお客様の呼吸がわかってきてるから、あたりさわらないね。お客さんも部屋でゆっくりしたいなっていったら外に行って、割と気さくな人だと、「下へ来てお茶飲まんと」というふうにしてね。

 変なお客さんってば、最初から「お金ないから」って言って来てね、「奥さんに逃げられたから、うーん、お金ない」って訪ねてきた。「ああいいよ、あんた泊まって帰れ」っていったら、後からちゃんとお礼しながらきた。そういう人もいる。あんまり変な人っていうのはいませんね。訪ね人ってのはあるけど、そういう人はうちには泊まんないね。表通りだし警察も近いしから、悪いことする人は来ない。

 私が来た当時、30年代は、ハンターが多かったんですよ。雉撃ちだね。11月くらいに、3、4日くらい。長い人は1週間くらい。一人で来る人もあるけど、案内人をこっちの町の人をつかって、犬とね。鉄砲撃ちに行くのが、朝早いから、4時頃に暗いうちから山に出ていくんだ。鉄砲撃ちに来る人は、どっかの社長とかそれなりの余裕のある人だから、当時は車で来ていたんです。

 お客様にお出しするのは活きのいいお魚が主です。私が嫁に来た辺りは、お魚っていうのは、炉辺で焼いてたんです。2階まで天井のない板丸出しの、丈も何ぼか低い、今みたいなのではない。だから炉辺で魚焼いて食べさせたりすると喜んでね。うちではまだ炭があったんですよ。買うときは馬車ひとつ、まとめて買う。でも下の子生まれてから手がなくなってきて危ないからって、今までの炉はふさいで、昭和48年にうちも新しく直したの。直してから35年くらいかな、今はガスです。

  

節に作る自家製の味噌や梅干し

 季節のものはちゃんとその時にやらないとね。4月になると自家製のお味噌なんかも一樽4斗、樽の大きいのを3つ置いて、いつも毎年作るんです。麹は麹屋さんから買って、うちで合わせて。豆と麹は分量同じでやる。豆1斗の時は麹も1斗。いつもそうやって作ってた。豆だけは煮てもらって、一年ずつ自分のうちで麹とか塩合わせて、寝かせる。3年味噌っていって、3年目に手をつけるの。3年置くっていうと色つくから。赤みその風味ね。だから味噌も美味しいですよ、うちのは。

 あと自家製のものは、梅。梅干しも「節」で作らなきゃならないからね。梅ならば7月8月に塩漬けとか土用干ししたりね。あと春の6月頃になると、志津川は山だからフキは山に採りに行くんです。茹でで皮剥いて、百葉ぐらいきっちり重しして塩漬けするんです。

  

古い建物を建て替えて

 私が来た、だいたい昭和40年あたりは、旅館っていうのは10軒くらいあったんでないかしら。旅館組合は歌津もいれて10軒くらいありました。震災の時は、旅館そのものはホテル1軒と旅館が3軒しかなかった。あとは後継者がいないとか、年とったとか、働く人がいないとかで、みんな廃業してました。私ももう体調悪いから、旅館業は廃業にしました。娘も調理師免許あるから、老人ホームの炊事の方に採用になって勤めてます。だから誰もやる人いないね、もう歳だもの。

 旅館としてはうちが一番古かったね。あとはうちみたいに古くはないけど、割烹旅館が建物古いまんまの、終戦の辺りの昭和に入ってからの旅館があったくらいではないかしらね。明治からの建物っていうのは残ってないみたいだね。うちでは48年まで昔の建物で、建物は時代劇に出てくるような古いうちで、玄関入ってくると土間があって、廊下とかは天井は低い建物でね。鴬張りですよ。そして両脇は障子の部屋。

 昔は神棚でもなんでも大きかったんだけど、今そういうの流行らないからって、39年に建て替えたときは普通の住宅と同じような現代的な旅館に新築で直してね。個室にしたのは7部屋。6畳と8畳ですね。全部、一回ドアを開けて、中に入って襖を開けて中に入る。あと玄関、炉辺などを48年に直したの。その時はつなぎにして、大部屋にして仕切って、何かの時には開けるようにした。それは3部屋だけ。そこもドア開けて中に入って襖をこう開ける。そこは大きな宴会の時とか、あと家族多い時に、一緒でいいっていわれればそこでね。夏なんかは、大勢子どもたちなんか来ると、そこを開けて。家族みんなで泊まるから、大きい部屋が良いっていって。

 お客さんの部屋の間取りはみな違いますね。8畳、あと8畳の他に2畳の畳の部屋があったり、床の間付けたり。掛け軸っていうのは壊れたりするから、うちでは額に入った文化刺繍(解きほぐしたリリヤンを専用の針で刺す刺繍)を飾ってた。バラの絵とか富士山の絵を刺繍したやつです。

  



■ 宮城県南三陸町志津川

宮城県南三陸町
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