東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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親父を見て大工に。地域活性のため色々やりましたね

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  • 話し手: 佐藤忠男さん
  • 聞き手: 金井千春
  • 聞いた日: 2011年12月11日
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本名と芸名

 名前は佐藤忠男(さとうただお)です。昭和8年4月25日生まれの78歳です。住まいは陸前高田市小友町(おともちょう)というところです。家族は、妻と娘と娘の夫と孫たちがいます。孫たちは出て行って、現在は家に4人で暮らしています。

 えーと、仕事は建設業かな。今は仕事は引退して少しばかりの野菜作りをやってますね。父の代から大工をやっておりましたけれども、32年前の昭和55年に事務所名を川口工務店と命名したんです。その訳を話しますと、祖々父の代の明治18年に、我が家が海岸の山際で小さな川の入り口に家を建て暮らしていたところ、誰が呼ぶとなく、「川口のおじさん」、「川口に行って来た」とか、自然にみんなで川口と呼ぶようになり、川口と言う屋号になったんです。ところが家を建て5年後の明治23年に、大雨による土砂崩れで家が倒壊してしまい、現在地に移って川のない所で生活しているのに、今でも川口と愛称されておりますよ。その後ずーっと、私を呼ぶ時は佐藤と呼ぶ人はなく、川口とだけ呼ばれますし、小友町内に佐藤という家の名の建設業が多いということもあり、我が家の工務店は川口工務店と名付けました。そこで冗談めいた自己紹介の時「本名は佐藤ですが、芸名は川口と言います」などと言うときもありますよ。

 

気仙大工は何でもやるよ

 私の工務店では造成から全てやってるんです。

 この陸前高田あたりの大工さんは気仙大工っていうの。それはね、現在の陸前高田市、大船渡市、住田町は気仙郡と言いまして、その当時の住所は岩手県気仙郡小友村であり、その気仙地方に住んでいるから気仙大工ということにもなるけど、そうでもないんだよね。

 国内で気仙以外の地方では木材を扱う職業は分類されていて、建具職、家具職、指物士、彫刻士、下駄職、宮大工、型枠大工、家大工等々があって、現在でも分業して職場を持ち仕事をしていますよね。気仙大工には舟大工と家大工だけが分業となってはいるけど、さっき挙げた仕事は何でもできるし、総じてなんでもこなすのが気仙大工と言いますね。だから私は下駄とか椅子も作れるし、箪笥も作れるよ。

 

己の仕事、大工への道

 小学校を終わり、新制中学となり、中学2年生を終了して父と一緒に仕事に付いて歩いたね。ある時は、大工の仕事をし、時期が来ると百姓になり、今度は次の家を建てる材料を切りに山林に入り木挽きをし、次は丸太の運搬、次にそれを製材する、その次は漁業、のりの養殖などなどで、何が本職だが分からない家業をやって育ちましたよ。

 今の大工は、電気のない国に行ったら大工できないんだよ。だって、全部の道具が電動で、電気が必要だからさ。だけど震災後から10日か20日くらいだったと思うけど、電気が来なかったんですよ。お風呂もガスも出ないしよ。そんで薪を燃やそうと思ってとノコギリ使おうと思っても、電気ないからできなかったんだよ。

 

3月11日は来客の対応中だった

 3月11日2時46分頃、突然震度7の大地震発生。その日、大船渡市赤崎で漁業を営んでいる志田さんが家を建てる相談に来て、話し中だったよ。地震が収まったとたんすぐに志田さんが「津波が来る」と一言発して、顔色を変えて車に飛び乗り帰って行ったよ。

 専務で設計を担当する我が家の息子(娘の夫)が建物を見回りに行ったはずなので、建物と一緒に流されたのかと心配していたよ。

 私は森崎という23世帯の小さな町内会の班長でもあり、前民生委員と言うこともあり、被災者全員を避難させる必要がありました。道路はがれきの山で歩ける状態ではないので、山の藪をかき分けながら1ヵ所に集まってもらい、仕事で出かけている人は別で、家にいる人が43名全員集まったのでモビリア(仮設住宅になっているキャンプ場)まで徒歩で移動を始めました。「被災していない方々は、毛布、タオル、衣類等を古物でもいいからいっぱい貸してください」と呼びかけながらモビリアまで移動しました。

 モビリアには行政区9区の皆さんも集まっていました。田束(たつがね)部落会長もいるし8区の区長、9区の区長もいるので、万が一事故発生した時は部落会長が対策本部長になると取り決めがあるので、私の役目はここまでとし、後は各長の方々に協力しながらその下で動くことにしました。

 



■ 岩手県陸前高田市田束地区

宮城県南三陸町
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