東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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悔しいけれど、津波に負けたくない

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  • 話し手: 佐藤ミツ子さん
  • 聞き手: 須藤佳美
  • 聞いた日: 2011年12月10日
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自己紹介

 佐藤ミツ子(さとうみつこ)、昭和23年4月22日生まれ、63歳です。陸前高田市米崎町出身です。今は夫の脩二郎と二人暮らしだけど、息子が一人、結婚をして東京にいます。夫は東京の方に気仙大工として出稼ぎをしていました。最近は少し薄れてきているけど、この辺は最近まで出稼ぎの家庭は結構ありました。夫が出稼ぎをやめてから帰ってきたのはたったの4年前でした。

 

大好きな花の切花栽培

 14年前から小さな農家で切花栽培を始めていました。もともとシャクヤクだの牡丹だのツツジだのがいっぱいあるところに育って、庭の花も好きだったので。切花栽培は、ようやく年中出荷出来る様になってきたのかなぁ、っと思っていた頃の天災大津波。どうしようもない。

 花は1年中、トルコキキョウやキンセンカとかいろいろな種類を育てていました。お彼岸とかお盆、あと、お正月が大切な出荷の時期です。それを逆算して、種を蒔いて開花の時期を調節して花を咲かせるのが腕の見せ所です。ちょうどよく咲くようにできたっていうのが自分でもすごくうれしく思う。だから「おお、凄いな」って誰か一人でも言われたら嬉しかったです。

 震災当時は3月のお彼岸用にとキンセンカ、スターチス、フリ―ジアが咲き揃って見頃でした。ハウスは2つ持ってたんだけど、ハウスも家もみんな津波に流されてしまった。出荷の時だったからガッカリでした。でも、天災だから何もね。また、再建出来ましたならば、高田松原採れたてランド直売所とリプル直売所とで出荷できる様、努力して行きます。

 

津波のその時、おっかなかった

 津波は3月、今は12月。家も何もかにも全部無くなって。生きていくには、前向きな考えを思って「津波なんかに負けたくない」と、悔しいけれど、そんな風に思いました。

 モビリアの仮設住宅には6月20日に入居できました。森崎地区は13件全員が揃っての入居です。大変良い事だと思います。だから以外に元気。でも、やっぱり寝ても起きても、「おっかなかった」気持ちが忘れられません。真黒な海水と向かいの山の高さ程の大きな大きな水柱と音のうねり。

 私のいた田束部落の森崎地区は北南が海に挟まれていて、北は車で2、3分、南は5分行くと海が見えるって場所に私の家がありました。だけれども、誰も津波が来るとは思わなかったでしょう。わりかし小高の場所の我が家も流失してしまった。なにせ普段は海が見えない場所なので、何とも理解が出来ませんでした。

 

嫁に行くときは津波の遭わないところに

 子どもの頃は海のそばの米崎町で育ちました。昭和35年のチリ地震津波にも遭っています。その時は小学6年生で「嫁に行くならば、絶対津波に遭わないところに行きたい」と思いました。嫁ぎ先の私の家がまさか、こんな大きな津波に遭うと思ったことはなかったです。まさかの大津波の被害に2回遭ってしまいました。

 チリ地震津波は昭和35年5月24日。だから夜明けが早くて、まだ寝てた時でした。お網人って網仕事で漁師さんが、明け方3時ごろに船を出す時に波の変化を感じて、それで「津波が来るぞー」ってみんなに教えてくれて。「波が引けてくんだ」っと。だから私たちも一回海に行ってみたら沖の方まで波が引いてしまってた。それで、「子どもだの女の人だの高い所に逃げろ」って言われて、ばぁちゃんだの親だのって高い所に避難したね。その時は波がチリから来たんだから地震がありませんでした。今回の津波に比べて被害が小さかったです。でも地震っていえば津波を体験してるからおっかない感じがします。

 



■ 岩手県陸前高田市田束地区

宮城県南三陸町
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