東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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悔しいけれど、津波に負けたくない

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  • 話し手: 佐藤ミツ子さん
  • 聞き手: 須藤佳美
  • 聞いた日: 2011年12月10日
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半農半漁とお手伝い

 私が子どもの頃は、じいちゃんと両親、兄弟は6人いて私はその3番目。兄弟みんなで親の手伝いをしながら学校に行ったものです。同じような家庭は近所にいっぱいましたね。その頃は私の家も近所も半農半漁といって、貧しくても海の物や山の恵みなど色々ありましたが、1年中、毎日を忙しくしていました。私の家では米や麦、リンゴを作っていました。あと、海苔養殖もやっていましたね。どこの家でも親の手伝いは子供達もみんな学校に行く前にしていました。学校から帰っても手伝い。それは当然のこと。だいたい子供は遊びたいからサッサと手伝って、その後は外で暗くなるまで遊んでいました。テレビもない時代でしたから。今では聞くことの無い言葉ですが、面倒見の良いガキ大将のお兄さんがいたりして、とても親も安心していたと思います。

 

子どもの頃の生活

 家の中は囲炉裏を囲んで大人の話もよく聞いたりしていました。昔は囲炉裏で鉄瓶のお湯を沸かしてお茶をいれて。お客さん来ればここ、お父さんとお母さんはここって場所も決まっていた。だから囲炉裏のそばが話を語る場所だった。それから、子どものおやつといってもお菓子が今のようにたくさんはありません。餅でも団子でもいっぱい作るからその時は鍋いっぱいに作って。ばっかり喰いしたものです。私なんかはお腹が減ればよその家に行って、よく勝手に食べていました。みんなそうしてそうだもの。だからどこに行っても怒られなかった。私達が育った時は「おうよ」って自分の子どもも、人の子どもも分け隔てなく食べなさいって。時にはお互い様でしたよね。

 この頃は貧乏と金持ちって生活ではっきりしていたから頑張れる人、努力した人はいい生活が出来て羨ましく思いました。我が家は貧乏の子沢山でした。でも、いっぱい遊べて楽しかったです。

 

全員無事に避難。だけども…

 私達、森崎地区は高台に神社があって、そこが避難場所でした。そしてこれまで年に一回の避難訓練を行っていました。今回3月11日は地震が大きかったから一応みなさんは神社に集合。日中ということもあって、地区内に居たみなさんは全員無事に避難が出来ました。

 高台から見ていた津波は、みるみるうちに黒い水の水位が高まり、何が何だか。悪夢でした。まさかこの地区には本当に津波が来るとは誰も思っていませんでした。だから私の家も車も流されてしまった。時間に余裕はあったんだけど車も庭に置いて流してしまった。子供の頃から位牌だけは持って逃げるように聞かされてきたけど…。残念、ガッカリだけども、昔から津波で命さえあれば何とかなると聞かされていたので避難しました。でも、この年で頑張るしかないのかと思いましたね。

 

田束地区が結束して救援に

 森崎地区のみなさんと津波が引いた後の瓦礫だらけの道路や普段は通らないような山道の藪の中を一歩一歩、木にすがったり、谷を下ったり。やっとたどり着いた避難所が今いるオートキャンプ場モビリアです。私達の地区の中に建てられていますが山の中腹でしたので津波の被害はありませんでした。

 私達の地区は大部落を田束地区と言い、他に中里部落、沢辺地区、小屋敷地区、塩谷地区、森崎地区と全部で5部落があります。その中に高台の場所のお宅とあって、津波に遭わない地区が2地区。そして、この津波の事態が地区を1つ結束となって私達被災者を救援して頂きました。本当に本当に誰からともなく、地区の皆さん一人ひとりに助けられました。

 



■ 岩手県陸前高田市田束地区

宮城県南三陸町
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