東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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百姓として入谷に生きる

百姓するって気持ち、その気持ちだけは抜けねかったのよ

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  • 話し手: 西城新市さん
  • 聞き手: 代田七瀬
  • 聞いた日: 2012年7月4日
  • 100/101

自己紹介―今でも百姓つづけるって気持ちだ

 西城新市(さいじょうしんいち)、昭和10年11月16日生まれの、76歳です。ここ入谷(いりや)で生まれたんです。家内は、志津川の小森、ちょうど今回の津波が止まった場所。

 家は平成6年に建て直したんだけど、享保年間、初代がここに家を建てたようなんだね。気仙大工が建てたんだよって聞かされてる。

 兄弟は姉と二人。親父が昭和12年に上海で戦死してんのね。支那事変ってことでね。私が2つの時だから、顔分かんないのよ。親父は農業やっていたようです。親父の頃は、炭焼きが主体だったようですね。たまたま徴兵検査で、甲種合格になったっていうことで、仙台に兵隊に引っ張られて、27歳で亡くなった。お袋が25歳の時。二人は10年間一緒に暮らしたって言うことは聞かせられていた。

 親父が早く亡くなったから、一家の大黒柱はじんつぁん(おじいさん)だった。これは、炭焼き専門です。炭焼きは、誰にも負けないっていうような、そういう炭焼きをしていたようでね。じんつぁんが死んだのがちょうど、私が高校終わってすぐの年、いや、次の年か。私も炭焼きしたよ。今でも俺が作った炭窯が「ひころの里」に残って、使ってんのよ。もうありとあらゆるものをやったのね。ここで暮らすための、生活手段になるもんならもう全部やってんのよ。炭焼きだけじゃなくて、養蚕、たばこ、そういうもので暮らして来ていたんです。

 俺はこう、ずんぐりで小さいけっども、親父は相当体格が良かったらしい。柔剣術はトップクラスっていわれたんだって、入谷地域で。ぐっと体格がいいのね、写真見っと。親父の様であれば、もう少し本当は背も大きくなっているはずなんだけっども、おれは残念なことにお袋に似たのね。お袋がちっちゃいのよ。背だけはお袋ゆずり、横幅は親父ゆずりなのね。だから、がっと肩が張ってんのよ。

 私の子どもは5人いて、今は息子と妻と三人暮らし。今も田んぼを。炭焼きはまったくしてねぇけっど。野菜は家内が専門。今でも、百姓するんだ、百姓してたんだっていう気持ち、全く抜けねぇんだ。

 

入谷という場所―入谷にも昔津波が来たんだよね

 入谷には、津波に関する地名が結構そっちこちにあるの。去年はいろんな方が来て、その昔津波が来て、津波関係の地名が残ってるんですよって言って聞かせたんだよね。例えば、「残谷(のこりや)」っていうところ。そこは、すぐそばに「越えず」っていう屋号もあんの。津波がここからここまで来たけど、ここは残ったよって言うために、残谷ってね。そして、こっからは越えないでしまったよってことて、越えず。

 そして家の北側にね、三角になった山があんのよ。これ、三人立ち。志津川湾の沖、陸が見えないとこまでずうっと船がいくと、その山だけがぽつんと見えんのよ。津波の時、3人逃げて行って立ってて、津波が来たっ!て眺めているうちに、その人たちが3人して「俺たち残ったな」ってことで、通称三人立ちっていう山になってるのね。地図の上では三人立ちっていう地名がねぇのよ。

 うちが海抜50メートルくらいなのね。そうすっと、今回40メートル、津波が来た所があるっていうと、これはもしかすっと、防波堤とか家なんかがあんなに建っていないというと、ストレートに来ると、ここの入谷まで来てるって可能性があんのよね。俺たちここで生まれた時からそれを言われながら育ってきてるのね。「ここに津波?あれ?こんな山の中で津波?」ってそんな感じでいたんだけっども。

 でも、実は海をおっかねぇとは思わねぇのね。津波の恐ろしさっていうのは、小さい時にこういう地名があるんだよってことで、聞かせられてるもんだから。でもお袋の姉が漁師の所に嫁いでいたもんだから、魚獲りなんかはしょっちゅう連れられて。高校の遠泳大会では、トップクラスだったのよ。山の中に暮らしていた人が、漁師の息子たち以上に泳ぎが速いのよ。親父ゆずりなようだね。

 



■ 宮城県南三陸町志津川

宮城県南三陸町
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